礼拝説教要旨(2016.06.26)
みことばに耳を傾ける人々
(使徒の働き17:10〜15)
 
 ピリピの町からアムピポリスとアポロニヤを通過し、マケドニヤ州の首府であるテサロニケまで、パウロの一行はエグナチア街道をたどっていた。テサロニケでの伝道は実を結び、主イエスをキリストと信じる弟子たちが増し加わって、その町にある教会として歩み始めていた。ユダヤ人たちの反抗によって、パウロたちが去った後も苦難が降りかかっていたに違いなく、パウロは手紙を送って励ますことも必要となるのであった。当面、ユダヤ人たちの反抗から逃れるのに、一行はエグナチア街道からは離れることを選んだようである。街道は西北西へと向かっていたが、一行はほぼ真西に向かってべレヤの町に着いた。夜の間の逃避行であり、パウロの伝道旅行はかなり緊迫していた。

1、べレヤに着いたパウロたちは、早速のようにユダヤ人の会堂に入って行った。安息日毎に、時と場所を選んで聖書から語ること、イエスこそキリストと説き明かすことは、パウロにとっての最重要課題であった。そして、この町での経験は、パウロの心に深く刻まれることになった。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちより良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(10〜11節)同じユダヤ人でも、この町の人々は、パウロの語るみことばに熱心に耳を傾けた。そればかりでなく、聞いたことを「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」のであった。テサロニケのユダヤ人たちとの違いを、パウロは「良い人たち」と感じた。穏やかであったのか、「寛容で上品な」とか、「素直」という意味での「良い人たち」と言われている。聞いたことを受け止め、本当かどうかを調べてみようとする、心の広さがあった。この心の広さや素直さは、聖書を読む時、そして聖書の説き明かしを聞く時に、それを理解する大切なカギとなる。

2、この町のユダヤ人たちが、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」ことは、たちまち実を結んだ。「そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。」(12節)パウロが語ったのは、テサロニケと同じように、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならない」ことであり、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と、聖書を説き明かすことであった。聞く人々は、熱心にみことばに耳を傾け、家でも、「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」ので、多くの者が信仰に導かれた。人々の心にみことばが届けられ、聖霊が人々の心を捉え、心の底から信じる者へと、一人一人を生まれ変わらせておられたのである。神の御業が、この町でも成されていた。人々がみことばに耳を傾ける時、そして「非常に熱心にみことばを聞く」時、必ず、神の救いの御業が成ることが、明らかとなっていた。

3、ところが、神の大いなる御業が成る時、それに反対する騒ぎも、また大きくなるのであった。テサロニケでパウロたちに反対したユダヤ人たちが、べレヤにも押しかけて来て、「群衆を扇動して騒ぎを起こした。」(13節)距離にして約80キロ離れていたが、ユダヤ人たちの妬みと怒りは激しく、その騒ぎは収まりそうになかった。べレヤの町で信仰を持った兄弟たちは、パウロを守ろうとして、海辺まで送り出し、船でアテネへと連れて行くことにした。シラスとテモテがべレヤに踏み留まったのは、きっと生まれたばかりの教会を守るため、兄弟姉妹たちが苦難の中でも信仰に堅く立てるよう、彼らを守る務めがあったからである。こうしてパウロは、アテネに留まり、シラスとテモテが合流するのを待つことになった。テサロニケ人への手紙第一によると、コリンとの町で一端合流した後、テモテはテサロニケへと遣わされ、兄弟たちが苦難の中でしっかり歩んでいることを知らされ、大いに喜こぶことがあった。けれども、その知らせが届くまで、パウロは、べレヤの教会の人々のことを含めて心配して、心が張り裂けそうな日々を過ごしていたと思われる。(14〜15節)

<結び> ベレヤの町で、主イエスをキリストと信じた人々は、パウロたちが語るみことばに耳を傾けた。彼らは、「非常に熱心にみことばを聞き」、聞いて終わりにしないで、「はたしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた。」そのようにして、彼らは、十字架で死なれたイエスは、確かに死からよみがえられたこと、そして、よみがえったキリストこそ救い主と信じることになった。神のみことばは、確実に人々の心に根付いて行った。みことばが語られ、説き明かされる時、そのみことばが人々の心に届くために、聖霊が必ず働くからである。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」テサロニケの町で、またベレヤの町で、人々が信仰に入ったのは、みことばと聖霊の働きによることであった。それは今日、私たちが経験することでもある。私たちが、心を開いてみことばに耳を傾ける時、必ず聖霊が働き、私たちの心も新しくされる。新しく生まれ変わる恵みに与り、私たちも、イエスをキリストと信じる信仰に導かれるのである。みことばを聞く時、心を閉ざすのではなく、心を開いて、聖霊の導きに従って、一歩前に進むことこそ尊いことである。一人でも多くの方が、主イエスを信じて、たましいの救いに導かれ、共に天の御国を仰ぐことができるよう、心から祈りたい。