礼拝説教要旨(2016.06.12)
世の権力を恐れず
(使徒の働き 16:35〜40)

 ピリピの町で捕えられ、牢に入れられたパウロとシラスであったが、真夜中に神に祈り、賛美の歌を歌っていた時、突然の大地震が起って、とびらが全部あき、鎖が解けてしまった。パウロたちだけでなく、他の囚人たちも同じように自由の身となったが、誰一人逃げ出すことはなかった。看守は自殺を思い止まり、余りの不思議な出来事に、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と問い、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と、主イエスを信じることこそ、真の救いの道であることを知らされた。看守とその家族は、その夜の内に、主イエスを信じて洗礼を受ける恵みに与った。彼らは、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。(25〜34節)

1、その夜、パウロたちは看守の家で食事のもてなしを受けたが、そのまま自由の身となったわけではなかった。パウロたちも、他の囚人たちも逃げ出すことなく、牢に止まっていたものと思われる。そして朝になって、一部始終報告を受けたのであろう長官たちは、警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ」と命じた。看守はその命令に従い、パウロに、「どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った。(35〜36節)不当な扱いを受けてもひるまず、神に祈り、賛美の歌を歌い続けたパウロたちから、主イエスを信じる信仰へと導かれた感謝を込め、二人の働きが益々用いられるように、祈りを込めて送り出そうとしたのである。ところが、パウロは、送られて来た警吏たちに告げた。「『彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。』」(37節)

2、長官たちは、もともと騒ぎを軽く見ていたようである。町の人々のパウロたちへの反感について、それはユダヤ人への反感で、むちで懲らしめ、一晩、牢に入れさえすれば、それでよし、と考えたのかも知れない。だから夜が明けると、使いをよこして釈放しようとしたものと思われる。けれども、パウロは「とんでもない」と抗議した。「ローマ人である私たちを、取り調べもせずに」むち打ち、牢に入れたことは、全くの不当である。まして今になって、「ひそかに私たちを送り出そうとするのですか」と。彼ら自身で出向いて来て、不手際を詫びるべきではないか、と厳しく迫った。パウロたちは、ユダヤ人であったがローマの市民権を持っていた。ローマ人として、その人権が守られる立場にあったので、長官たちの扱いに抗議した。もちろん、ユダヤ人であっても、不当な扱いをされてよいわけでなく、行政長官たちの不当な扱いは、咎められなければならなかった。パウロは、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、はっきり抗議しようとしていた。真の神を信じ、神の前に生きる者として、世の権力に対しても、毅然とすること、間違いは間違いと言い切ることの大事さを実践していたのである。

3、警吏たちから、パウロとシラスがローマ人であることを知らされ、大慌てしたのは長官たちであった。彼らの責任は、ローマ市民を守ることであり、不注意でしたことであれ、事が明るみに出たなら、その失政を問われるのは当然であった。何とか収めるには・・・と必死にならざるを得なかった。「自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。」(38〜39節)パウロたちが、この出来事について訴えるなら、長官たちの立場が危うくなるからであり、とにかく町を出てほしいと、頼むしかなかった。牢を出た二人は、ルデヤの家に行った。そこに兄弟たちが集まっていたからである。ルデヤを初穂として生まれたピリピの町の教会は、パウロとシラスの働きを通して、また、その町で起った出来事を通して、主イエス・キリストが生きて働いておられることを経験し、不思議な出来事や世の権力との対決を通して、生きて働いておられる神に拠り頼むことを学んでいた。教会は、いつの時代でも、どこにあっても、世の権力を恐れず、それに立ち向かうことができるよう守られている。世の権力によって、不当な扱いを受けたとしても、それを乗り越えることができるのが教会である・・・と。このようにして、パウロたちは教会を励まし、次の町へと向って行った。

<結び> ピリピの町での出来事は、この世にあって生きる私たち一人一人に、そして、世にある教会に対して、大切なことを教えくれる。世にあって、どのようなことがあっても、世の権力を恐れず、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」を貫き、善悪に関しては、決して恐れず、また、ひるまず、前を向くことの大切さについてである。不当な仕打ちで牢に入れられたパウロたちであった。けれども、身体は縛られていても、彼らの心は、全くの自由であった。激しい痛みがあっても、心から祈り、賛美の歌声をあげることができた。私たちも、同じようにさせていただけると心から信じて、信仰の生涯を歩ませていただきたい。(マタイ5:37、ヤコブ5:12)

 常日頃から、明らかな心をもって生きること、歩むことを導かれたい。周りの人にどのように見られているのかを気に掛けるのでなく、神の前にこそ、明らかな良心をもって生きることである。今、この日本の社会で、信仰のゆえに不利益があるようなことは、ほとんどないに等しい。しかし、地域社会にあって、また職場や家庭において、様々な人との関わりなど、信仰ゆえに心騒ぐことが、必ず生じるのも事実である。そのような時、私たちは徒に恐れることのないよう、祈りつつ、自分の決断と行動を、しっかり選び取れるようにしたい。いつの時代も、何事もなく同じように進むのではなく、突然のように、あるいは知らず知らずの内に、社会は変化することがあるからである。特に今、この日本の社会は危ういと思えてならない。教会は、目を覚ましていなければならない。私たち一人一人も。だから、聖書を通して、神に信頼すること、神にあって恐れず、堅く立って動かされない信仰を、一人一人がしっかり持てるよう祈りたいのである。(※ペテロ第一1:3-9,15-21)