礼拝説教要旨(2016.06.05)
主イエスを信じなさい
(使徒の働き 16:25〜34)

 ピリピの町で、紫布の商人ルデヤとその家族、続いて占いの霊につかれた女奴隷と、主イエスを信じて、たましいの救いへと導かれる人々が起こされていた。けれども、この女奴隷が占いの霊から解放されたことにより、彼女の主人たちがパウロとシラスを捕え、長官たちに引き渡したので、二人は激しくむちで打たれ、厳重な監視の下、牢に入れられてしまった。二人は足かせを掛けられ、身動きが取れない苦痛に耐えながら夜を迎えていた。捕えられたのはパウロとシラスで、テモテやルカは難を免れ、ルデヤたちと共に祈りをささげていたに違ない。神の守りと助けが、必ずあるように・・・と。

1、パウロたちは、むちで打たれた身体の痛み、また足かせによる不自由さに、耐え難い夜を過ごしていた。身体は鎖につながれ、自由が奪われていたからである。けれども、彼らの心は、決して縛られてはいなかった。「真夜中ごろ、神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(25節)二人は、神に祈り、賛美の歌を歌い続けていた。その姿は、他の囚人たちの目に、痛みも鎖も、二人には何でもないかのように見えたのであろう。祈りの言葉と賛美の歌声に、耳を澄まして聞き入った。イエスをキリスト、救い主と信じる者は、どんな困難にも打ち負かされることはない。身体は縛られても、心は全くの自由で、痛みや苦しみの中でも、神を賛美することができた。暗闇の中でも、主イエス・キリストの確かな光を見出していた。パウロたちは、神に祈り、神の光を見て、賛美の歌を歌い続けていたので、囚人たちは、その歌声に聞き惚れ、心惹かれていたのである。その時、突然の大地震が起こって、「獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」(26節)その地震は、二人や教会の祈りに答えるかのように、獄舎のとびらを開け放ち、鎖さえも解き放ってしまった。囚人たちは全員が自由となって、大慌てしたのは、目を覚ました看守であった。(27節)

2、ところが、その時に起っていたのは、看守には思いもよらないことであった。「そこでパウロは大声で、『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んだ。」(28節)看守は、当然のように囚人たちは逃げ出し、その責任は自分にあり、自殺するしかないと考えたのである。囚人の逃走は地震によるとしないで、看守としての責任は免れないと真剣に受け止め、本気で死を覚悟したので、「剣を抜いて自殺しようとした。」それでパウロは、「私たちはみなここにいる」と叫んで、自殺を思い止まらせたのである。他の囚人たちが逃げ出さなかったのは、賛美の歌声に聞き入っていた時、囚人たちの心にも神が働いて、パウロたちと共にいる喜び、また幸いを、彼らも味わっていたからと考えられる。彼らは、決して逃げ出そうとしなかった。パウロの指示を待とうとさえしたと思われる。看守は、パウロたちの前に震えながらひれ伏した。「そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。」彼は、一瞬でも、本気で死を覚悟したことによって、自分にとって、今、一番大切なことは何なのか、今、何をすべきなのか、そのことを問うことになった。目の前で、自分の常識では有り得ないことが起っていたからである。人間の生と死を超える何かがあるのか、それは何なのか知りたい・・・と。(29〜30節)※口語訳:30節「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか。」

3、看守の真剣な問い掛けに、パウロたちはズバリ「『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』」と言った。十字架で死なれたイエスを、救い主と信じなさい、と明言したのである。イエスこそ救い主キリストと信じることが、あなたの人生とあなたの家族の人生を豊かにする。これこそが真の救いへの道であると言った。看守は、パウロが語る「主のことば」、すなわち、主イエスの十字架と復活の出来事をしっかり聞くことになった。彼だけでなく、「彼とその家の者全部」が聞いた。そして、「そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」と記されるように、たちまちの内に、信者が増やされることになった。(31〜33節)この看守もルデヤと同じように、救いの喜びを表そうとして、パウロたちを家に招き入れた。「それから、ふたりを家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」(34節)ペンテコステ以降の福音の目覚ましい進展において、「全家族そろって」の救いの喜びは、コルネリオとルデヤに次いで三家族目である。またピリピでの三例目の救いの恵みの業である。裕福なルデヤ、貧しい女奴隷、そして獄舎の看守と、どんな人も皆、等しく救いへと招かれていることが明らかである。肝心なことは、自らも救いを求めることと、招かれたなら心を開く真剣さ、また真実さである。

<結び> 看守の驚きは、大地震に対してではなかった。獄舎の土台が激しく揺れ、とびらが全部開いてしまったこと、囚人たちの鎖が解けてしまったこと、それらに驚いたのは事実としても、囚人が逃げ出すことなく、全員がパウロたちと行動を共にしていることに、全身が震え、驚愕したのである。生か死を迫られ、直感的に根源的な救いの必要を認めることになった。死を思い止まり、自分には「救い」が必要と、心から気づいて、主イエスを信じたのである。本気で死を覚悟したので、彼は確かな救いに辿り着いた、と言える。

 言い換えるなら、私たちを含めて、多くの人が、案外漫然と生きていて、なかなか本気では生きていない・・・のかもしれない。あるいは、本気で死を覚悟することなく、何となく生きてしまっている・・・のかもしれない。難しいことは余り考えないよう、程ほどにして生きている・・・のか。そのようにしている限り、自分に根源的な救いが必要とは、なかなか気づかないものである。しかし、私たちは、生ける真の神の前に、絶対的な罪の赦しが必要であり、確かな救いが必要であることを、決して忘れないよう心したい。十字架で死なれた主イエスを、救い主キリストと信じることが、救いへの唯一の道であることを覚えたい。真の救いは、その人一人だけのものでなく、信じたその人と、その家族におよぶものなのである。それで「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言われている。救いの恵みは、一人から二人へ、二人から三人へと、必ず受け継がれる。私たち一人一人、確かな救いの恵みへと、更に導かれるように祈りたい。