礼拝説教要旨(2016.05.29)
占いの霊からの解放
(使徒の働き 16:16~24)

 マケドニヤ地方第一の町、ピリピでの初穂はルデヤとその家族であった。彼女は、神によって心を開かれる幸いに与り、自分の家にパウロたちを迎え入れ、救いの喜びに溢れていた。この町では、他にも特筆する出来事が続いていた。信仰に導かれる人が多く起こされ、ルデヤの家が弟子となった人々の集会場となっていたと思われる中で、占いの霊につかれた若い女奴隷の身に起こったことは、ピリピの町を大騒ぎにする一大事となって行った。

1、パウロたちは、安息日毎に、いつものように川岸にある祈り場に向かった、その途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをすることによって、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女には、占いの霊が備わっていたので、その能力を食い物にしようと、複数の主人たちがいた。その当時の「占いの霊」とは、未来を告げる神託があるということで、昔も今も、人々がそのような力に惹かれるのは、あまり変わらないようである。それを食い物にする男たちがいることも。彼女は、奴隷としてこき使われていた。何のためにか。主人たちの収入源としてであった。しかも、かなり莫大な利益をもたらしていたに違いない。その彼女がパウロの話を聞いて、パウロが何を語っているのか、聞きわけながら、ある日「この人たちは、いと高き神のしもべで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と、叫び続けて一行の後について来た。それは一度だけでなく、幾日も続いたので、「困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、『イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。」すると即座に、その霊は彼女から出て行ったので、占いの霊にとりつかれていた彼女は、すっかり解放され、以後、占いをすることはなくなったのである。(16~18節)

2、彼女が、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けたことに、パウロが困り果てたのは、一体何だったのであろう。彼女が語った内容は、それなりに正しく、問題がないように思える。けれども、パウロが困り果てたのは、言葉では「いと高き神」、また「救いの道」と話していても、その中身は全く別のことを言っているという、深刻な問題を含んでいたからである。当時のユダヤ人の間でも、また異邦人の間でも、同じように「神」と言っても、全く別の「神」指すということがあった。すなわち、女奴隷が叫ぶ言葉は、パウロの伝道の助けになるどころか、妨げでしかなかった。その叫びは、占いの霊が叫ばせるものだったので、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じたのであった。彼女には、本当の助けが必要であった。パウロは、占いの霊からの解放こそが、今必要と判断したのである。同じ言葉を発していても、それはかえって混乱を生じさせ、益にはならなかった。彼女が、主イエスを信じることにも繋がっていなかったのである。

3、彼女が占いの霊から解放されるや、別の問題が一気に噴き出した。彼女を使って儲けていた主人たちが、たちまち反撃に出た。パウロの伝道に対する反対は、これまではユダヤ人による宗教上のものであった。それに加えて、この町での反撃は、異邦人によるものであり、金銭が絡んだ理由からであった。主人たちは「もうける望みがなくなった」ので、その怒りをパウロたちに向け、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へと引き立てた。そして二人の長官の前で、このユダヤ人たちは、町をかき乱している、ローマ人に悪影響を及ぼす風習を宣伝していると、怒りに任せ、群衆を巻き込んで訴えた。ローマの植民都市として、町には複数の長官がいた。通常なら裁判となり、正当な手続きが執られる筈であったが、なぜかなされないまま、二人はむちで打たれ、直ちに牢に入れられてしまった。それだけ怒りと興奮が、その場を支配していた。パウロたちには、激しい痛みを伴うむち打ちの刑、そして牢では、足枷を掛けられるという、思わぬ展開となった。福音の証しに対する妨げというのは、異邦人の世界では、経済的な利益が損なわれることに起因することが、よく解る展開である。(19~24節)

<結び> 女奴隷が、占いの霊から解き放たれたことは、彼女にとっての新しい歩みの始まりであった。先のルデヤが、どちらかと言うと裕福で、普通の生活をしていたのに対し、彼女は「女奴隷」として、社会の最下層に属する者であった。イエス・キリストの福音は、どのような人にも等しく届けられること、どんな人も、等しく救いに導かれることが明らかにされている。彼女は、自分からパウロの前に進み出たわけでなく、後ろから付きまとい、福音宣教の妨げともなっていた。好意的なことを語りながら、かえって妨害をしていたからである。パウロが彼女にといりついた霊を叱って、主イエスがその霊を追い出して下さったので、彼女を食い物にしていた主人たちからも解放されるという大きな幸いを、彼女は得ることができた。キリストの福音は、人々を縛る様々な縄目から、人々を解き放し、真に自由にし、神と共に歩む幸いへと導くものである。この幸いへと人々を招くため、パウロは伝道を続けていた。

 この出来事は、ピリピの町が植民都市として栄えてはいても、町にはありとあらゆる束縛が満ちていて、人々は金儲けを第一としていること、それが上手く行かなくなると、たちまち激しい憎悪や怒りで突っ走ってしまうことがよく分かる。それは何も、二千年前の昔のことに限らない。今、現在のことでもあると、つくづく思わされる。占いの霊は、この日本の社会にあっても満ち溢れ、人々はそれに振り回されている。占いばかりか、ありとあらゆる悪霊が世に満ちている。多くの人が、自分を頼れず、自分で物事を判断できずに狼狽えている。パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言った時、このピリピでの経験を思い出していたに違いない。(エペソ6:12)私たちは、悪霊の存在や働きを、徒に恐れることなく、既に勝利しておられる主イエス・キリストを信じて、必要な時、きっぱりと対決できるよう備えたい。パウロはここぞ!と言う時に、切り込んでいたことを覚えて。