礼拝説教要旨(2016.05.22)
神によって心を開かれる
(使徒の働き 16:11〜15)

 パウロの第二回伝道旅行は、ルステラから小アジヤ地方へとの当初の行程が変わり、フルギヤ・ガラテヤの地方を通ってビテニヤの地方に向かおうとして、またまた行き先変更を余儀なくされた。そして、ムシヤを通ってトロアスに下り、そこに滞在している時に、パウロは幻を見て、マケドニヤへの神の招きを確信した。「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ」と、神の招きに従おうとしたのであった。一行に使徒の働きを記したルカが加わり、伝道旅行の記録は、目撃証言として、歴史的意義のあるものと評価されている。キリストの福音は、こうしてヨーロッパへの一歩を踏み出すことになった。

1、トロアスは小アジヤの北西端に位置する港町である。そこから出発した船は、北西方向に進んでサモトラケに直航した。風の具合か、そこで船は、一晩停泊し、翌日ネアポリスに一行は到着した。「新しい町」というネアポリスからは、アドリヤ海の町に向かうエグナチア街道というローマの公道があった。目指すマケドニヤ第一の植民都市ピリピが、もうすぐ近くである。マケドニヤに向かうと決めた時、パウロの心が、すぐローマを目指し始めたかは定かでない。けれども旅は、ローマへと通じるエグナチア街道を進むことになった。ピリピの市民にはローマの市民権が与えられていて、この町は軍事的に、また経済的に、人々の行き来する主要な地位を占めていた。パウロたちはこの町に幾日か滞在し、安息日に、ユダヤ人の祈り場があると思われる川岸へと、出て行った。この町に会堂はなかった。でも、必ず礼拝場所があると向かったのである。川岸は、きよめの儀式に適していて、そこに集まる人々に福音を語ろうとした。(※ユダヤ人の会堂は、その町に最低十人がいると必ずあると言われる。)その日、パウロが人々に語った時、テアテラ市の紫布の商人、神を敬うルデヤが話を聞いて、イエスをキリストと信じた。「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」からである。(11〜14節)

2、彼女は、テアテラ市の紫布の商人と言われている。ピリピの町に来て、そこを拠点として商売をしていた。紫の染料は高価で、その布は高級品であった。(※紫布:地中海のアッキ貝からとれる微量の色素を集めて染料として染めた布で非常に高価であった。ルデヤの紫布はテアテラ産で、あかね草からとった染料で染めたものと考えられている。)その仕事柄、ルデヤはかなり裕福で、家族の他、使用人もいて大きな家に住んでいたようである。神を敬い、真実を求めていた彼女は、パウロの話を聞いて、迷わずイエスをキリストと信じたので、彼女ばかりか家族も信じて、洗礼を受けることになった。イエスを信じた彼女の喜びは大きく、パウロの一行を自分の家に招き入れ、「どうか、私の家に来てお泊りください」と、強く頼み、遂にそのようになった。彼女自身は、「主に忠実な者」として、パウロの一行をもてなすことが、今自分にできる最高の奉仕と確信したからである。こうして、ルデヤの家を中心として、ヨーロッパで初穂となるピリピの教会が、確かな一歩を踏み出した。その教会は、パウロの伝道において重要な働きをすることになり、以後の伝道をしっかり支えるだけでなく、パウロにとって、いつも喜びをもって覚える教会となった。神のご計画は確かで、人の目には偶然としか思えないことも、神の御手の中では必然である。最善の出会いを備え、最高の実を得させるように、パウロたちを導いておられた。(15節)

3、パウロとルデヤの出会いにおいて、神が全てを支配し、導いておられた不思議を思う。その日、その時、その場所での出会いを、神が必ず備えておられることに、大きな驚きを覚える。そして、イエス・キリストの福音が語られる時、その話を聞いて信じる人とは、神によって心を開かれる人であることと気づかされる。その人は、神によって心を開かれる、特別に幸いな人であると。ルデヤは、パウロの話を聞いていた。その時、「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」からこそ、ルデヤは信じてバプテスマを受けることになった。この事実は、私たち一人一人にも当てはまる。私たちがイエスをキリストと信じるよう導かれたのは、神が私たちを捉え、私たちの心を開いて下さったからに他ならない。先ず、福音に耳を傾けるよう導かれ、福音を信じるように、私たちの心を開いて下さったのである。それなしに、私たちは尚も、自らの心の頑なさの内に沈み、神はいない!と強弁しているに違いない。私たちの心は、実に石のように固く、神によって心を開かれなければ、今も罪の中にいて、もがくばかりである。

<結び> なぜ、そのように言うのか、また思うのか、それは私たち人間の心の頑なさが、恐ろしいばかりのものだからである。ともすると、私たちは、自分がどれだけ善良で、これまで何の悪いこともしなかったかのように、錯覚していることがある。けれども、ただ一人、善にして完全な方、全く正しい神がおられることを知るならば、その方の前に顔を上げることのできない自分を、必ず思い知らされる時が来るのである。すなわち、どんな人でも、自分の内側を探られ、問われるなら、必ずや根本的な助けの必要を知ることになるからである。それでも、私たちは、自分から神の前に進み出ることは、ほとんどすることがなく、また決してしない!という事実がある。「しない!」のではなく、本当は「できない!」のである。にも拘らず、私たちは今、信仰に導かれている。また、導かれようとしている。神が、私たちの心を開いて下さっているからであって、それ以外には有り得ない。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」とは、このことを指している。(エペソ2:8)私たちは、神によって心を開かれた幸いな者であることを、今一度、しっかりと心に留めたい。そして、感謝をもって、福音の前進のために共に祈り、また労することを喜びとする者とならせていただきたい。