礼拝説教要旨(2016.05.15) =教会設立37周年記念礼拝=
神の招きに従う
(使徒の働き 16:6〜10)

 パウロの第二回伝道旅行は、ルステラでテモテが一行に加わり、そこからまた新たな展開をしていた。「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」(5節)パウロは、福音の前進のため、テモテにはユダヤ人としての立場を明確にさせようと、割礼を受けさせたのであった。福音の根幹は、十字架のキリストにあり、イエスをキリストと信じる弟子たちが、いよいよ増し加えられていた。パウロの一行は、そこから西に進み、小アジヤと呼ばれる地方へ向かおうとしていたと思われる。ところが、その道は閉ざされ、フルギヤ・ガラテヤの地方へと行く先を変えていた。何があったのかは定かでない。けれども、パウロたちは、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」と、行く先変更は、聖霊の導きであると確信していた。(6節)この行く先の変更は、後々、福音が当時の世界に大きく広がる第一歩となる。福音は、アジヤからヨーロッパへと広がることになるのであった。

1、第二回伝道旅行の当初の行程は、ルステラなどの地方からアジヤ洲を目指し、エペソの町へ向おうとしたと考えられる。けれども、聖霊の導きに従って、北に向かい、恐らくビテニヤに進もうとした。そしてムシヤまで進んだところ、そこでまた、「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」のである。(7節)一度ならず二度も、行く先の変更が迫られた。「それでムシヤを通って、トロアスに下った。」(8節)どのようなことが起こっていたのか、内容には触れられていないが、行く先の変更は、神の確かな導きと知って、それに従った結果であった。神に導かれて送り出されていたので、行く先々で起こる事柄は、神が聖霊によって導いて下さることと、はっきりと信じていた。神の御手が差し伸べられ、起こり来る全ては、神の許しなしに起こりえないと信じていた。トロアスはエーゲ海に面する港町である。ローマの植民都市として栄え、アジヤとギリシャのマケドニヤを行き来する船が、絶えず出入りしていた。神の導きは何かを思わずにはいられない、パウロの一行であった。

2、数日そこで過ごすことになって、「ある夜、パウロは幻を見た。」それは、「ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願する・・・」幻であった。(9節)夜、就寝中に夢を見たのか、それとも目覚めている時に幻を見たのか、定かでない。けれども、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願する人の幻を見て、パウロの心が大きく動かされた。エーゲ海に浮かぶギリシャの島々を目にして、マケドニヤ人の叫びは、人々の魂の叫びと聞こえたのである。滞在中に出会った人々の様子や、聞かされた話など、パウロの心に迫るものがあったと考えられる。福音をマケドニヤの地方に届けること、ギリシャからローマへと続くヨーロッパの地に届けることを、神ご自身が望んでおられると確信することになった。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」(10節)度重なる行く先変更の意味を、思い巡らしながらの旅であった。その上で、幻の意味することを考えた時、パウロの心は揺るがなくなったのである。「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ。」これが、パウロの決断と行動の根拠となった。神が招いておられるなら、私は従う・・・と、明確であった。

3、一連の出来事が記されているこの個所は、使徒の働きの中で、注目すべき大事な個所の一つである。これまで、パウロの一行について、「彼らは・・・」と記されていたのが、10節から、「私たちは・・・」と記されるようになる。それは、パウロの一行に、使徒の働きを記したルカが加わったので、主語が「私たち」と変わり、伝道旅行の直接の目撃証言が記されていることを意味している。では一体どんなきっかけで、ルカがパウロの伝道旅行に同行することになったのか。はっきりとした答えはないが、幾つかの推論が立てられている。先の行く先の変更の一因に、パウロの病気があり、静養が必要となったと考えられている。病がきっかけで医者ルカに出会い、以後、主治医のように伝道旅行に同行した・・・と。あるいは、マケドニヤ人の幻は、ルカの叫びであり、願いであったのかもしれない・・・等々。決め手となるものはないが、持病があったと考えられるパウロのために、医者を備え、その働きの助け手を与えて下さった神のご計画の確かさ、また素晴らしさを思うばかりである。

<結び> 今朝の説教題を「神の招きに従う」とした。伝道旅行の行き先変更、そして、マケドニヤ行きの決断など、その一つ一つに、パウロたちは、聖霊による導き、御霊の導き、更には神の招きのあることを見出していた。しかも、行き先変更に関して、どちらもマイナス面での導きであったが、それに従っていることに注目させられる。(「・・・聖霊によって禁じられたので・・・」「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」)パウロの病気が一因なら、私たちは、そのような時、「聖霊によって禁じられたので」とは言わず、「悪霊に妨げられた」と言うかもしれない。(あるいは「サタンに妨害された」とも)良いことばかりを「神の導き」とし、悪いことは「サタンの妨げ」とし易いからである。私たちは、大いに学ぶべきである。神の御手のご支配はあまねく、導きの確かさを覚えたい。何が起こっても、神の導きは揺るがず、必ず最善が成ることを信じたい。そして、一歩前に進み出ることが必要な時には、神が私を招いておられるので、私はそれに従うと、はっきり確信して歩みたいものである。神を信じる決断や、クリスチャンとして歩もうとする全ての局面で、神の招きに従うことは、いつでも大事なことである。何事でも、一歩踏み出すのは、神の招きに従ってすることと覚えたい。そのようにして歩む日々は、揺らぐことはない。私たちの歩みが確かなものとされるよう祈りたい。(箴言16:1-3、コリント第一10:13、ヤコブ1:17)

※教会設立37周年を迎えた私たちの教会の歩みは、神の導きや招きに従っての今日までの歩みである。これからも神に従って、しっかり歩めるように!!