パウロの第二回伝道旅行は、シラスを同行者として陸路にて続けられた。シリヤのアンテオケから北に向かい、地中海沿岸を西に進み、タルソを経由して諸教会を力づけた。キリキヤ地方からガラテヤ地方へと進み、デルべ、ルステラへと向かい、先の伝道によって信仰に導かれた人々を励ました。その時のことを思い出すと、どの町でもユダヤ人による反対が激しく、ルステラでパウロは、石をもって打たれ、死の危機に直面したのであった。パウロは、イエス・キリストの福音を異邦人に伝えることに努めていた。けれども、その当時のローマ社会では、離散して寄留しているユダヤ人が、どの町にも大勢いた。そこでパウロは、ユダヤ人のための会堂を手掛かりとし、そこで福音を語ることを心掛けていた。ユダヤ人の反発があっても、人々の旧約聖書の知識は、やはり貴重で、その理解の上に、イエス・キリストの福音に、人々が耳を傾けてくれることを願っていた。そこで問題になるのが「割礼」であった。エルサレム会議で、異邦人に「割礼」を求めることはしない、と決していたが、ユダヤ人でクリスチャンになる者には、避けて通れない課題であった。(1〜2節)
1、第二回伝道旅行の目的の一つは、エルサレム会議の決定を諸教会に知らせることであった。その務めを果たすのに、ルステラで一行にテモテが加わったことによって、やや難題を背負うことになった。テモテの母はユダヤ人で、父はギリシャ人であった。当時のユダヤ人社会では珍しいケースであったが、異邦人を父としつつ、祖母からの信仰を受け継ぎ、ユダヤ人として生きていたところ、パウロに出会ってキリストの弟子となったのである。イエス・キリストを信じ、罪を赦され救われるという福音の根幹において、「割礼」は全く要求されていない、というのが教会の確信である。だから異邦人に、それを要求しないと決定したのである。ところが、「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシャ人であることを、みなが知っていたからである。」(3節)ここに記されていることは、原理原則における矛盾なのでは・・・と、私たちを大いに戸惑わせる一幕である。一体何が起こっていたのだろうか。
2、テモテは、ルステラでギリシャ人を父として生まれたが、ユダヤ婦人である祖母ロイスと母ユニケの信仰を受け継いで、ユダヤ人として育てられていたのである。ところがユダヤ人としては、割礼を受けていないことが、彼の立場をいつも不安定にしていた。ユダヤ人なのか、それとも異邦人なのか・・・。パウロとシラスに同行し、福音を宣べ伝える働きを共にするに当り、彼の立場を明確にするには、何をどうすべきなのか、パウロは考えた。そして、ユダヤ人としての立場を確立するのがテモテには最善と考え、割礼を受けさせたのである。パウロを非難する人は、彼は首尾一貫していない・・・と言う。あるいは、使徒の働きの内容そのものが間違っているのでは・・・とも。けれども、ここで起こっていたことは、まぎれもない事実であり、パウロたちは、このことを果たし、その上で町々を巡回し、エルサレム会議の決定を諸教会に知らせ、その規定を守るよう勧めながら福音を宣べ伝えた。「こうして、諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」(4〜5節)様々の課題を克服して、教会が前進するためには、時に大胆な決断が必要であり、神が導いて下さる最善を信じて、前に進むことが大事と教えられる。
3、パウロが選び、実行に移したことは、テモテがユダヤ人であることを明確にすることであった。すなわち、彼が割礼を受けるのは、ユダヤ人であることを自他共に認め、その上で前に進むことであった。それが、福音の前進につながると信じたからである。後にパウロが、「・・・ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです」と語っていることである。「・・・何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みを受ける者となるためなのです。」(コリント第一9:19-23) それは、原理原則を曲げることとは別のことであった。救いに関する大原則は決して曲げず、そうでない所では、本当の意味での自由を選び取ることが、福音の前進のためになると信じたのである。私たちも、このパウロの姿勢を学び取りたいと、心から願うところである。ところが、それが難しいというのが事実である。「私はすべてのことを、福音のためにしています」と、私たちが言う時、ともすると、ただ自分のしたいことをしてしまう、恐ろしいワナに陥るからである。
<結び> 先週、「この日本の社会にあって、長老教会を建て上げる務めは、きっと私たちが考えている以上に、重要で大きいことと思う」と言った。その視点と通じることであるが、日本人の心を掴むため、どのように福音を語ったら良いのか、その課題は恐ろしく大きいものと言える。「日本人には日本人のようになる・・・」とは、一体どのようなことなのであろうか。実際のところ、福音の本質を曲げず「日本人のように・・・」とは、ほとんど不可能なのではないか、と思う位である。私自身は、そのように思うことが強い。そして、日本的な事柄と対決することの大事さを思わされる。なぜならば、日本の社会に根強い、汎神論的な考え方というのは、聖書の有神論的な考え方とはっきり対峙しているからである。そのことを覚えた上で、全てのことを、聖書に照らしながら考え、聖霊に導かれながら、福音の前進のために喜んですることを選び取れるなら幸いである。私たちの教会も、「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った」と言われる歩みをさせていただけるよう祈りつつ、前進させていただきたい。
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