礼拝説教要旨(2016.05.01)
神の家を建てる幸い=日本長老教会設立記念礼拝=
(詩篇 127:1〜2)

 今月は、第一週に「日本長老教会設立記念礼拝」を迎え、第三週に所沢聖書教会の「教会設立37周年記念礼拝」を迎えることになる。昨年に引き続いて、主題聖句として、詩篇127篇1節を掲げる私たちの教会である。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)新たな会堂建設を願って、会堂のことのみならず、私たちの教会の歩みの全てに渡って、主が共にあって支え、また導いて下さることを覚えたいと、この年も主に従いたいからである。同じ願いをもって歩み始めた昨年度は、目に見える形では、余り変化のない一年であった。目の前のことで一喜一憂せず、むしろ全てのことが、神の御手の中にあること、神が事を成して下さることを、しっかり覚えるよう教えられた気がする。今朝は、主と共に歩み、主が成し遂げて下さる業に、喜びをもって携わっているかどうかを問い直しつつ、同じ御言葉に耳を傾けてみたい。

1、この詩篇127篇1節は、「建物」としての「家」を建てること、そこに人が住んで築く「家庭」としての「家」を建てることの、どちらにも当てはまる真理と、昨年も覚えた。そのことを、これほど見事に言い表している言葉は、他にないと思える位である。そして2節は、人が生活する全ての営みにおいて、背後に神の守りのあることを知ることの大切さを、ズバリ言い当てている。後半の3〜5節は、神に祝福された家庭を歌っているが、今朝は前半のみを覚えたい。私たちが気づこうと、気づくまいと、神の御手の守りの中にあって、また神の支配の下にあって、私たちは生かされていると、果たして、どれだけ考えているだろうか。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(2節)自分の人生はもちろんのこと、私たちの教会の歩みを振り返り、神の御手に守られ、導かれて今日のあることを、今一度思い返し、神への感謝に導かれたいと思う。※日本長老教会も、所沢聖書教会も。

2、旧約聖書、また新約聖書でも、「主が家を建てる・・・」と言う時、その「家」は「神の宮」である。神を礼拝する場所としての「家」が、先ずはっきりと意識されている。パウロはテモテに次のように語っている。「私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私が遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」(テモテ第一3:14-15)はっきり、「神の家」とは「教会」のことであると。従って、教会の営みの全ては、神が成さる業と、私たちがはっきり認識しているか否か、その違いは、とても大きい。また教会を建てるとは、建物としての教会であるより、中身の問題であることを、より一層覚えることが大切となる。実際に「教会建設」と言う時、その意味することは、建物の建設より、教会としての内実を建て上げることが、より重要である。すなわち、建物はあくまでも「教会堂」であり、そこに神の民が集まり、礼拝をささげる群れが存在すること、そこに教会があると言える。一人一人がしっかり教会に連なっている事実、それが尊いことになる。

3、日本長老教会は1993年5月3日に設立された。所沢聖書教会は1975年2月9日、伝道教会設立式を行って旧日本基督長老教会に加わり、1979年5月20日、長老任職により教会設立へと導かれた。その前年、現会堂の献堂式が導かれたので、教会設立37周年と会堂が与えられてからの年数は、ほぼ同じと考えてよい。旧日本基督長老教会は1956年12月9日にスタートしている。その時の思いの一つに、この日本の社会にあって、「長老教会」を建て上げることがあった。「監督制」でなく、「会衆制」でもなく、「長老制」の教会政治によって教会を建て上げることに、意義を見出し、そのことが至難でも、ぶれずにやり遂げたいと、高い志を掲げていた。日本社会の特徴というか、日本人の好みなのか、会議を通じて答えを見出そうとするのは、そもそも不得意で、日本でのプロテスタント教会の歩みは、苦闘している現実がある。所沢聖書教会は、その始まりからすると、不思議にも長老教会に連なることになった。ほとんど「教会」を意識しない団体の宣教師の働きによって始まり、たまたま長老教会と関わり、結局、長老教会に加入し、今に至っている。けれども、事実として、日本長老教会を建て上げる働きを担い、自らも教会を建て上げる働きを続けている。神の家としての教会を建てる幸いを、しっかりと担っているのである。

<結び> この日本の社会にあって、長老教会を建て上げる務めは、きっと私たちが考えている以上に、重要で大きいことと思う。先週、衆議院議員の補欠選挙があったが、その投票率の低さに驚いた人が多いと思う。選挙の大事さ、その尊さを知るのは、キリスト教会における役員選挙から!と思えてならない。しかも、長老教会の長老選挙から!!と。世界の民主的な選挙制度の元は長老制にある、と言っても過言でない。プロテスタント宗教改革の広まりと、民主的な政治体制が整うことがほぼ符号しているからである。日本の社会の問題は、形式的な制度としての選挙制度など、政治の形が取り入れられたものの、根底のものがないため、右往左往しているのが現実である。最近は、思想的に益々右傾化しているのは、否定し難いことである。だからこそ、私たちは、聖書に聞き従い、神の家を建て上げることに、より明確に携わること、その喜びと幸いに与ることが大事と思われる。通常の教会の礼拝の他、教会の働きに連なり、また会堂の建設という業にも携わって、大きな幸いに与り、また大きな喜びを経験させていただきたいと、心から願うところである。