エルサレム会議によって、神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって、罪の赦しをいただき、救いに入れられるという確認がなされた。エルサレムにある教会もアンテオケにある教会も、ユダヤ人も異邦人も、神は人を何の差別もぜず、救いに招いておられることを喜び、感謝することになった。パウロとバルナバは、自分たちの信仰の確信を強められ、アンテオケの教会に留まって、主イエスの福音を宣べ伝える務めを果たしていた。しばらくしてパウロは、先に伝道した人々のため、また町々を訪ねてみたいと、バルナバに提案することになった。(36節)
1、この提案は、バルナバも当然の思いであった。ところが、その願いに反するかのように、パウロとバルナバの間に大きな亀裂が生じることになった。伝道のために出かけるのは一致していても、誰を一緒に連れて行くかについて、思わぬ不一致が明らかになった。バルナバは、「マルコと呼ばれるヨハネ」を連れて行くつもりでいたが、パウロは、「パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた」のである。パウロは、厳しい伝道旅行に同行させたくないと考え、バルナバは、もう一度チャンスを与えたいと考えたのであろう。もちろんパウロも、マルコを失格者と決めつけていたわけでなく、必要以上の重荷は負わせないようにと、心を配っていたのかもしれない。けれども、二人の意見の違いは、思わぬ対立となって、「激しい反目」となった。その激しさは、互いに譲ることなく、自分の考えを貫くことになった。「バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。」(37〜39節)
2、バルナバは、最初の伝道旅行の行程を再び巡るように、郷里のキプロス島へ渡ったの対して、パウロは、同行者としてシラスを選んで、シリヤおよびキリキヤを通り、陸路にて諸教会を力づけようとした。彼がシラスを選んだのは、エルサレム会議の決定を伝える使者として共に旅をしたこと、またアンテオケに留まって、彼が良い働きをしたことなどから、何かの時にはシラスの力を借りたいと、そのように思ったのに違いない。この時の「激しい反目」とは、一体どのようなことであったのか。福音を宣べ伝えたいという願い、また目的は、全く同じで、異存はなかった筈である。けれども、方法において、誰と働きを共にするかで、絶対に譲れない対立が生じていたのである。そこまでするのか・・・と思う位不可解である。私たちの場合なら、どうするか戸惑いがある。パウロとバルナバは、結局、「互いに別行動をとる」ことになった。反目して、その結果、互いに別行動をとるわけで、それぞれの行動が実を結ぶものとなるのか、はなはだ不透明である。二人はどのような気持ちでいたのか、前途は開けているのか、暗いのか・・・?
3、この時点でのパウロとバルナバの対立は、心配の種をまき散らしていたものと思われる。パウロとシラスは、アンテオケの教会の「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。・・・」(40〜41節)確かに、主の恵みにゆだねられての出発であった。けれども、パウロとバルナバの二人は背を向けるように、反対方向へと進んで行った。見送る兄弟たちは、主の恵みの御手に委ねることを、心に強く思ったに違いない。背後には神の御手があって、神のご計画があるとしても、目の前の現実においては、神のご計画は隠されているからである。パウロもバルナバも、教会の兄弟たち姉妹たちも、隠された神のご計画には気づかないままで、神のご計画は実行に移されている。パウロの第二回伝道旅行は、正しくその典型的な出来事である。恐らく二人は、神のご計画そのものを知ってではなく、知らないまま、それぞれ出発した。自分たちで考えて判断し、決断し、行動していた。神ご自身は、それぞれの決断と行動を、聖霊の導きによって支配し、その行く道を守られる。キリストの教会は、そのようにして今日に至っている。いつでも、どこにあっても、神に信頼して従うこと、そして神に守られ前進する時、神が働いて実を結ばせて下さるのである。
<結び> パウロとバルナバの激しい反目が、何を生み出し、何をもたらしたのか。それは、福音宣教の業の、一層の拡がりであった。神のご計画の隠されていた部分とは、伝道に遣わされるチームが、一組から二組に増えたことである。パウロとバルナバの組み合わせは、最善で最強だったかもしれない。けれども、一組より二組になると、より広範囲に福音が届けられるのは明白である。働き手が増やされ、熟練した働き人が起こされることになっていった。時には、激しい反目さえ用いて、主なる神が、ご自身のご計画を実行されるとは、大きな驚きである。目の前の困難や大きな痛みに、一喜一憂することなく、隠された神のご計画を信じて、私たちの教会の歩みを、そして一人一人の人生を歩むこと、それがどれだけ大事であるかを、心に刻みたい。
私たちの日々の生活において、自分では理解できないこと、時に耐えられないような試練が、確かに襲うことがある。そのような時、隠された神のご計画があることを知っているなら、神が働いて、全てを益として下さると、私たちは信じることができる。パウロは、「私たちは知っています」と言い切っている。伝道旅行の一コマを、思い出していたのではないだろうか。(ローマ8:28)そして、耐えられない試練はない・・・とも。「試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と。(コリント第一10:13)神のご計画が隠れていても、すなわち、私たちの目には見えなくても、神は必ず、生きて働いておられることを心に留め、地上の日々をしっかり歩めるよう祈りたいものである。
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