礼拝説教要旨(2016.04.17)
教会の一致と平安のあいさつ
(使徒の働き 15:12〜35)

 イエス・キリストを信じる信仰の本質に関するエルサレム会議は、激しい論争を経て、ペテロの取りまとめによって、落ち着く先が見え始めていた。「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。・・・・私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(8〜11節)神は、人をかたより見ることなく、どんな人にも恵みを注いで救いへと招いておられると説かれて、全会衆は沈黙するしかなかった。「そして、パウロとバルナバが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。」(12節)二人は、神の御業の証人として、心を込めて語っていた。

1、二人の証言の後、いよいよ会議の結論を導いたのはヤコブ(主の兄弟ヤコブ)であった。神ご自身が、どのように異邦人を顧みて下さったのか、その初めの出来事はどのようであったか、ペテロが説明した通りと振り返りながら語った。旧約聖書に預言されている通りである・・・と。アモス書にある言葉が、神に立ち返る異邦人のことに触れていると気づいたからである。(アモス9:11-12)「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れたものと不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(13〜21)ヤコブは、会議の結論を、はっきりと導き出すことができた。偶像に供えられた汚れた物、また絞め殺された物、血、そして不品行は、全ての人が裂けるべきことで、それらは、律法に記された普遍性のある教えと理解し、それ以上のことを異邦人たちに求めることはしない・・・とした。イエス・キリストを信じる信仰の内面を尊び、生活習慣の違いなどから、他の人の心を縛ることのないようにと決定したのである。(19節 ※創世記9:4、レビ3:17、17:10-18:30)

2、この会議の決定は、異邦人伝道を進める上で、とても重要であった。恵みにより、信仰によって義とされ、救われるということを、教会が確認したのである。そこで、その決定をアンテオケ教会の他、異邦人を中心とする諸教会に知らせることになった。パウロとバルナバを中心にユダとシラスが選ばれた。彼らは書面を携えて、送り出された。その内容は、先ず、一部の者たちが何の権限もなし、異邦人クリスチャンたちの心を乱したことに触れ、その上でイエスをキリストと信じる歩みをするように励まし、これだけは注意して避けてほしいと、文書と口頭で伝えようとした。全教会が導かれたことは、聖霊によって教えられたことであり、これに従って行きたい・・・と。(22〜29節)キリストの教会は、この地上にある限り、完全ではなく、欠けがある。時に難題を抱えることになる。その都度、使徒たちは速やかな対応をしながら、着実に前進していた。会議を開いて、聖霊の導きに従って事柄を処理すること、ここに長老教会の原点がある。皆が話し合い、時に論争もし、最後に行き着くのは、聖霊に導かれての結論である。決定に従うのは、答えを導かれた神に従うことである。会議の決定に従うことの大事さは、このことにこそある。

3、書面を携えた一行は、アンテオケ教会に到着した。会議の決定が読まれ、教会の一同は励ましを受けて喜んだ。ユダとシラスも預言者であったので、多くのことを語って励まし、また力づけた。教会の交わりの大切な側面の一つとして、「ことば」による励まし合いがある。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが何語によって語り合い、交わったのだろうか。恐らく、より親しく交わるために「ギリシャ語」が使われたと思われる。互いの思いを伝え合い、言葉をもって励まし合う交わりが、教会にとってのいのちであることを教えられる。ユダとシラスは、しばらく滞在して後、「兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところに帰って行った。」彼らは、エルサレムへと向かった。教会の交わりには、互いの平安を祈り合うことが大事と、改めて思う。「平安があなたがたにあるように」との挨拶は、復活の主イエスが、弟子たちの前に現れた時の第一声である。その時、主イエスは、恐れ、また戸惑う弟子たちに、もう一度「平安があなたがたにあるように」と語っておられる。以後、弟子たちは、同じ挨拶を繰り返したのに違いない。この地上の日々には、どれだけ恐れや不安が満ちていようと、主イエスにあって、心に「平安」が必ず注がれることを、私たちもしっかりと覚えたい。

<結び> パウロとバルナバは、エルサレム会議出席という大役を終え、しばらくはアンテオケ教会に留まって、教会のため、また人々のために「主のことばを教え、宣べ伝えた。」二人の他にも、多くの人々が共に労するまでに、アンテオケ教会は成長していた。(35節)15章1節以下の記述は、淡々としていて、それ程の苦労もなく、落ち着くところに行き着いたと考えてよいのか、果たして真相はどのようであったのだろうか。実際には、私たちが想像する以上に論争は激しく、一致点を見出すのは難しかったのに違いない。ユダヤ人のクリスチャンの中には、異邦人のクリスチャンに対して、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言い張った人がいたからである。そして、異邦人のクリスチャンたちの中に、気持ちが揺れていた人がいたのも事実である。そのような動揺は、ガラテヤ人への手紙を読むと明らかである。人間の生まれながらの性質は、行いに頼る気持ちが強く、何かが足りないと言われると、たちまちそれに応えようとし始める。だからこそパウロとバルナバは、この時こそ、「教会の一致」を求め、速やかな決着を願ったのである。そして、教会は「一致」を見出し、更なる前進を導かれた。

 私たちの教会も、何かの問題に直面したなら、聖霊の導きを求めて話し合うこと、時には論じ合うことを大事にしたい。必ず主が共におられ、答えを下さると信じて、歩みたいを思う。また、別れる時だけでなく、いつでも「平安のあいさつ」を交わすことも導かれたい。互いに平安があるよう祈り合うことである。何事であっても、話し合うのは、時にじれったいと思うのが、日本の社会の特徴のよう。けれども、キリストの教会は話し合い、論じ合いしながら、祈り合い、支え合って今日に至っている。その事実を覚えて、福音宣教のために、私たちの教会も用いられるなら、何と幸いであろうか。