礼拝説教要旨(2016.04.10)
何の差別もつけず
(使徒の働き 15:1〜11)

 使徒の働き15章1節以下は、紀元一世紀の初代キリスト教会の歩みにおいて、とても大事な出来事に関する記述である。ペンテコステの日以後、主イエスをキリストと信じる弟子たちの群れは、目覚ましい勢いで福音を宣べ伝えていた。ステパノの殉教という試練によって、エルサレムを追われた弟子たちが多くいたが、迫害によって散らされた人々は、かえって行く先々で主イエスのことを証しし、シリヤのアンテオケでは、ユダヤ人以外の異邦人、すなわち、ギリシャ人などの外国人からも、イエスをキリストと信じる人々が起こされたのであった。弟子たちは「キリスト者」と呼ばれるようになり、やがて、アンテオケ教会からバルナバとパウロが伝道に遣わされ、福音は異邦人が多く住む地域へと広がって行った。こうして一世紀の半ば、エルサレムにある教会とアンテオケにある教会との二つが、福音宣教の拠点となっていた。

1、教会の成長と発展は目覚ましく、喜ばしいことであった。けれども、その成長の中で、新たな問題が起こっていた。それは、キリストの教会にとって、恐らく最大で、最重要の課題であった。十字架で死なれ、死から復活された主イエスをキリストと信じる信仰において、何を、どのように信じるのか、肝心なことは何かを問うことである。エルサレムの教会の多くはユダヤ人の弟子たちであり、彼らはユダヤ人の生活習慣が身に着いていた。旧約聖書の律法に従って生活していたので、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えられても、何の抵抗もなかった。ユダヤ人男子として、イエスを信じて救われるため、それは当然のこと考えていた。彼らは、異邦人にも、「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えるべきとして、幾人かがアンテオケに出向いて、兄弟たちに教えたので、パウロとバルナバはこれに反発した。激しい対立と論争が生じ、遂には、エルサレムで会議を開き、話し合いをすることになったのである。異邦人の弟子たちにとって、イエスを信じて救われた喜びは大きく、「割礼を受けなければ・・・」との教えに、戸惑うばかりであった。(1〜2節)

2、イエスを信じる信仰の本質に関することであり、パウロとバルナバの他にも幾人かが、教会の人々に見送られて出発した。エルサレムに行く道々で、そこにある教会で交わることができ、また異邦人が救いに導かれた証しを分かち合うことができた。イエスをキリストと信じて救われることの喜びを、互いに確かめ合いながらの道中であった。そして、エルサレムに着いて、「彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。」(3〜4節)早速のように「パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、『異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである』と言った。」こうして、使徒たちと長老たちが集まり、この問題を検討する会議となった。(5〜6節)激しい論争を経て、ペテロが立ち上がり、意見を取りまとめるように語っている。彼は、神が事を決めておられる順序を理解しながら、福音が先ずユダヤ人に宣べ伝えられ、次に異邦人へと広まった事実を証言した。彼自身が経験したことは、自分では思いも及ばないことであって、異邦人もまた、聖霊を与えられ、イエスをキリストと信じるようになったことは、神が成されたことと語っている。「私たちとかれらとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」神は全ての人を招いておられると、彼は気づいた。(7〜9節)

3、「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(10〜11節)ペテロは、人が救われるのは、律法で定められたことを守ったり、行いを積み上げたりすることによるのではなく、主イエスの恵みによるのであり、イエスを救い主キリストと信じることによることが、今一度よく分かったのであった。律法に定められていることは、何が正しいか、何が間違っているか、神が人に求めておられる正しさの規準である。けれども、それを守るなら救われるという規準ではない。幾ら行いを積んだとしても、それで人が正しいとされる道は何一つない。この点で、神は人を全く差別なく見ておられる。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、何の差別もつけず、神は恵みを注いで、人々の心を信仰によってきよめて、救いに入れて下さるのである。これこそが、イエスをキリストと信じる信仰の本質である。ペテロは心を燃やされて、人々に説いていた。全会衆は、その言葉に打たれるようにして「沈黙してしまった。」(12節)

<結び> エルサレム会議の最終決着には、もう少し議論が続くが、根底となる理解はほぼ同意に至った。恵みにより、信仰によって救われるという、一番肝心なことが、はっきりと確認されたのである。ペテロは、百人隊長コルネリオの一家が救いに導かれた時、「神はかたよったことをなさらず、どこの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。・・・このイエス・キリストはすべての人の主です」と語っていた。(10:34-36)私たちが、主イエスをキリストと信じる者として歩むなら、この信仰の本質を、しっかりと理解することが大事である。私たちは、人間を造られた神、生ける真の神を信じている。その神は、人をかたより見ることはなさらない方である。人を、何の差別もつけず、誰をも救いへと招いて下さるお方である。そのような神であられるので、私たちも救いの恵みに与ったのである。神が私たちをも、確かな救いに導き入れて下さったのである。このことを覚えるなら、私たちは、ただただ感謝に溢れるのみである。

 この信仰に立つなら、初めて私たちは、互いに他の人を、真実に思いやる心に導かれるのである。というのは、私たち人間は、この真の神の愛に触れるまでは、何と傲慢で、自分中心にしか生きられない存在であることを、ほとんど気づかずに生きているからである。神に出会い、主イエスの愛に触れて、私たちは神に愛され、生かされていることを知るのである。何の差別もつけずに、私を愛し、信仰に導き、救いに入れて下さった神がおられること、これこそ私たちの信仰の拠り所である。ささやかでも、救いの喜びを証しして、救いに与る人が増し加えれるよう祈りつつ、歩み続けたい。(エペソ2:8-10)