主イエスは、ゴルゴダの丘で十字架につけられた。私たちの罪の身代わりとなられた。罪のない方が、罪ある私たちの身代わりとなって死なれた。けれども、父なる神の救いのご計画には、十字架の死からのよみがえり、復活による、罪に対する、完全な勝利が用意されていた。復活された主イエスは、その日の夕方、弟子たちの前に、復活のからだをもって現れておられた。彼らは、まだ恐れや戸惑いの中にあり、人目を避け、閉じこもっていた時、その部屋に入って来られた。「平安があなたがたにあるように。」(19節)この時、主は、からだをもってよみがえったことを弟子たちに示しておられた。
1、弟子たちにしてみれば、考えもおよばないことが起こっていた。目の前に主が立たれても、それは夢か幻か、ただの霊を見ているだけと思うのは、当然であった。彼らに、傷跡の残る手とわき腹を示し、「まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。・・・」と語っておられた。こうして「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20節)主イエスの思いは、彼らが、神を信じ、また主ご自身を信じて、平安を得ることであった。最後の晩餐の席で主イエスは、「わたしは、あなたがたに平安を残します。・・・わたしの平安を与えます。・・・」 (14:27)また、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と語っておられた。(16:33)弟子たちは、復活の主にお会いして、今こそ、死を恐れることのない平安を得ることになるのである。この平安を持って、世に出て行くようにと願っておられた。そして、彼らに「聖霊を受けなさい」と語って、彼らを、罪に赦しの福音を伝える器として送り出そうとされた。すなわち、十字架と復活の証人となるように・・・と。(21〜23節)
2、週の初めの日の朝、主イエスは死からよみがえられた。よみがえられた主は、その日の夕方、弟子たちのいる部屋に入って来られ、彼らを勇気づけ、励まして遣わそうとされた。けれども、その幸いな時、その幸いな場所に弟子の一人、トマスは居合わせなかった。そのため彼は、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「決して信じない」と言い張ることになった。彼は「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ・・・」と、頑なであった。仲間たちの説得は実を結ばず、とうとう一週間が経過した。(24〜25節)八日が過ぎ、トマスも弟子たちと共にいた部屋に、主イエスは来られ、「平安があなたがたにあるように」と言われた。主イエスの復活を巡って、弟子たちの間で、やや波風が立っていた時、そこに主が来られた。何のためであろう。ただ一つ、トマスもまた復活の主イエスにお会いし、イエスを心から信じるためであった。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(26〜27節)主イエスは、その日、トマスを信じる者とするために、トマスの前に現れておられた。彼は躊躇うことなく信じる者となった。(28〜29節)
3、ヨハネの福音書は、トマスに言われた主イエスの言葉を記している。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」この言葉は、彼を叱責するものではなく、彼に続く者が起こされることを保証している。復活の主を見ること、またお会いすることは、肉の目によることではなく、霊の目によることなのである。主イエスは、やがて天に昇り、父なる神の右の座に着かれる時が来ることになっていた。その時、イエスを信じる信仰は、全て「見ずに信じる信仰」となるのであった。それゆえに、代々の教会は、この「見ずに信じる者は幸いです」との言葉に支えられている。そして、この福音書が書かれたのは、「イエスを神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と告げている。(30〜31節)後の世にに至るまで、聖書を読む人が、イエスをキリストと信じて、永遠のいのちを得るように、そのために聖書は書かれている・・・と。その思いは、主イエスご自身の心からの願いであり、人々が信じて、永遠のいのちを得るためにこそ、十字架につき、三日目によみがえっておられた。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」主は、心を込め、切なる思いでトマスに語っておられたのである。
<結び> 一週間前、その場にいなかったトマスのために、主イエスはその部屋に入ってこられたのである。主イエスは、一人の人を導くためには、そのようになさる方である。その点で、私たちの信仰は極めて個人的な始まりを持つものである。共通点は確かにあっても、どのように信じるのか、どのように従って歩むのか、一人一人違っている。私たちが覚えておくべきことは、一人一人に、主が語りかけ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と、手を差し伸べて下さっている・・・という事実である。トマスに差し出された手を、私たちにも差し出し、「わたしを信じなさい」また「わたしに従いなさい」と、主は言われるのである。イエスを信じた人は皆、その語りかけに、ある時、はっきりと答えることが導かれたのである。
先週、イースターを祝った私たちである。今年も、主イエスの語りかけを確かに聞くことができた。「信じる者になりなさい」との主のお心を、しっかり心に刻んで、日々を歩ませていただきたい。信じるのに迷いのある方、また、まだよく解らないという方、ぜひ、主の語りかけに耳を傾けることが導かれるように。その人のために、主が近づき、語りかけて下さる時が、必ず来ることがあると、今朝の聖書は教えている。私のために、主が近づいて、「信じる者になりなさい」と語って下さることを、私たち皆が知って、永遠のいのちが与えられることを、共に喜ぶことが導かれるよう祈りたい。(ローマ6:4-11)
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