主イエスは、最後の晩餐の席を離れ、ゲッセマネの園に行かれ、父なる神に祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)そこに群衆が押し寄せ、ユダの手引きでイエスは捕えられ、ユダヤ人の指導者たちによる審問、そしてローマの総督ピラトによる裁判を経て、ゴルゴダの丘で十字架につけられた。ピラトは、イエスには何の罪もないことが分かっていた。けれども群衆の声に負け、イエスを引き渡してしまった。聖書は、罪のない主イエスが十字架で死なれたことを、はっきりと告げている。(19:6)
1、ゴルゴダの丘には、二人の犯罪人を右と左にして、イエスの十字架が立てられた。主イエスは、激しい苦しみを経て、完全に息を引き取られたので、足のすねを折られることなく、十字架から取り降ろされることになった。そのからだは、埋葬のため、アリマタヤのヨセフに託された。ヨセフは、それまではイエスの弟子であることを隠していたが、この時にこそと、思い切って名乗り出た。その勇気に促されるように、ニコデモも、イエスのからだの埋葬のために、没薬とアロエを混ぜたものを三十キログラムも持って、やって来た。イエスが死なれたという悲しみの中で、二人はもはや、人の目を恐れることなく振舞い、通常の埋葬の習慣に従いつつも、高価な香料などを用いて、できる限りのことをした。そして、ゴルゴダの丘近くの園にあった「新しい墓」に、イエスは納められた。慌ただしさの中であったが、全てのことが備えられて埋葬は行われた。ガリラヤから着いて来ていた婦人たちは、埋葬の様子を見届けていた。彼女たちは、安息日が明けたなら、自分たちもまたできる限りのことをしたいと、その時を待ちわびていたのである。(19:28-42、※ルカ23:50-56)
2、「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(1節)墓に来たのは、数人の女たちであった。彼女たちは、自分たちの思いを込め、もう一度、埋葬をやり直したい気持ちで、香料を携えていた。道々、あの大きな墓石をころがしてくれる人がいるのかと、心配しながら墓に着いたところ、石はすでに取りのけられ、墓は空っぽになっていた。余りの驚きに包まれ、慌てて弟子たちに知らせるのが精一杯であった。(2節)考えられるのはただ一つであった。「だれかが墓から主を取って行きました。・・・」イエスのからだは、どこか他の場所に移されたに違いない、でも、その場所は分らない・・・。女たちの知らせを聞いて、ペテロとヨハネが駆け出した。ヨハネが先に着いて墓を覗き込んでいる時、ペテロが後から着いて中に入った。彼は、身体に巻かれていた亜麻布と、頭に巻かれていた布が残っているのを見た。先に着いていたヨハネも墓の中に入り、その様子を「見て、信じた。」(3〜8節)彼がイエスの復活を信じたのかどうか、やや疑問がある。次の節で、「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったからである」とある。からだがそこにないことを認めただけかもしれない。聖書が約束する復活については、この後、徐々に悟らされている。彼らは「空の墓」を認めて、皆のいる所へと戻って行った。(9節)これが主イエスが復活された日の朝の、最初の出来事である。
3、墓の外でしばらく泣いていたマリヤは、泣きながら墓の中を覗くと、そこに二人の御使いがいた。マリヤは御使いとは気づかず、また主がそばに立たれても、「園の管理人」と思い込んでいた。「だれかが私の主を取って行きました。・・・」「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」(11〜15節)主イエスの死は、彼女から生きる希望や力を見失わせ、空の墓を前にして絶望していた。けれども、主は、そのマリヤの前に現れ、親しく声をかけておられた。彼女の目は涙で曇っていたに違いない。その彼女に、「マリヤ」と声をかけられると、すぐに彼女は、「ラボニ」と答えた。自分の名が呼ばれた時、イエスの声をはっきりと聞き分けることができた。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」と言われたとおり、彼女はイエスの声を聞き分けたのである。その喜びはひとしおである。余りの喜びに、今にも、すがりつきそうになったので、主は言われた。「わたしにすがりついてはいけません。・・・」と。十字架の死と死からのよみがえりは、罪人の救いの道を開くためのものであって、その救いの御業は、天の父のもとに帰ることまで含まれていると、そのように主は考えておられた。以前のままの関係で、マリヤが主に再びお会いして喜ぶことのないよう、心を配っておられたものと思われる。そして彼女には、復活の主にお会いしたことを、弟子たちに告げるよう命じられた。主が天の父のもとに上られると告げるとともに、「私は主にお目にかかりました」と言うように。(16〜18節)
<結び> 安息日が明けた「週の初めの日」の朝、主イエスは十字架の死からよみがえり、復活された。イエスをキリストと信じる弟子たちの歩み、キリストの教会の歩みは、そこから新しい歩みを始めたのである。広い意味で、「教会」は、世の始まる以前より、世の終わりまで、いや世が終わって後の永遠まで、神によって知られている「神の民」の全体である。その教会の地上の歩みにおいて、主イエスの復活を境にして、「週の初めの日」が特別なものとなった。それは「よみがえりの日」であって、「復活を記念する日」である。その日の「朝早く」イエスはよみがえり、マリヤたちが墓に着いた時、墓はすでに空であった。この事実は、復活の主イエスを信じる者に、死はもはや、何の力もなく、死を恐れることはないことを示している。
私たち、イエスをキリストを信じる者が、「週の初めの日の朝」に公の礼拝をささげるのは、イエスの復活を信じるからである。復活こそが私たちの希望であり、勇気の源と信じているからである。礼拝に集い、その場にいることにより、主からの呼びかけを聞くことができる。主イエスは私たち一人一人にも、その名を呼んで語りかけ、「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているいるのですか」と言われる。すなわち、私たちにも、「わたしはここにいる」と語って、悲しみや痛みを取り去ろうとしていて下さるのである。「週の初めの日の朝」、それは復活の主イエスにお会いする朝であり、一年に一度の「イースター礼拝の朝」は、そのことを覚える、格別な朝となるのである。イースターを喜ぶとともに、週ごとに復活の主にお会いして歩む日々は、私たちにとって宝のような日々であることを感謝して歩みたい。 |
|