礼拝説教要旨(2016.03.20) =受難週=
神を信じ、またわたしを信じなさい
(ヨハネ 14:1〜7)

 受難週を迎えて、今朝は、主イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちに語られた教えに耳を傾けることにする。ヨハネの福音書では、12章12節以下が受難週の記事となる。ロバの子に乗ってエルサレムに入場された主イエスは、大勢の群衆に迎えられた。群衆はこの方こそ、イスラエルを再建して下さる地上の王と期待したのである。ところがその期待は現実とはならず、実際には、イエスとユダヤ人の指導者たちとの対立が鮮明となり、週の後半を迎えることになっていた。丁度、過越の祭りを迎える時であり、イエスと弟子たちの一行は過越の食事をする席に着き、いわゆる「最後の晩餐」を迎えていた。。

1、主イエスは、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」(13:4-5)弟子たちの驚き、また戸惑いは大きかった。弟子たちの足を洗い終わったイエスは、上着を着けて、再び席に着いて、次のように言われた。「・・・あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(13:14-15)その後、弟子のひとりが裏切ることを告げ、ユダが席を離れたと記されている。ユダが去った後、主イエスは、「今こそ人の子は栄光を受けました」と語って、十字架の時は来たとして、弟子たちに大切な教えを語り始めておられる。弟子たちは、重大な事態を感じ取っていた。主イエスのいのちが取られることが迫っていると、緊迫感をもってその場にいたのであった。ペテロは戸惑いながらも、「あなたのためにはいのちも捨てます」と、精一杯の覚悟を告げていた。けれども主は、彼もまた裏切ることを予告しておられた。弟子たちがどれだけ、うろたえていたか明白であった。(13:36-38)

2、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1節)主は、恐れに包まれている弟子たちに、「恐れることはない。神を信じているあなたがたこそ、神を信じ続け、またわたしを信じ続けるのです」と、励ましておられた。主イエスを通して生ける真の神を信じる信仰は、この世での幸か不幸か、また、この世での生か死かを分けるような、うわべのものではない。主は弟子たちに、今、目の前に死が迫るような恐れの中で、肉体の死を、他の人々と同じように恐れることはない・・・と、彼らに言い聞かせておられた。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったなら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(2節)「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(3〜4節)「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われた主が、いのちを捨てるために前に進もうとしておられ、弟子たちは心を騒がしていた。このような時にこそ、信仰が試されるのである。心騒ぐ時に、信じ続ける信仰が、何よりの力となる。

3、主イエスが十字架にかかり、いのちを捨て、この地上を去ることは、人の目には敗北と見え、恐れと闇に包まれることかもしれなかった。けれども、主ご自身としては、十字架で身代わりの死を遂げることが、救いの道を完全な形で開くことであり、弟子たちに永遠のいのちを与えるための、欠くことのできない一歩なのである。だから「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」と言い、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と言われた。その意味が分らない弟子たちに、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と、主イエスは語られた。(5〜7節)天の父なる神のみもとに、住まいが備えられていること、それは、たましいの救いが天において完成することを指している。そこで、神を信じる者は、一切の恐れや不安を取り去られ、完全な休みを与えられるのである。この救いを確かなものとするため、主イエスは、十字架の死に向かっておられた。死によって、一度はこの世を去っても、場所を備えたなら、また来て、弟子たちを迎える・・・と、約束しておられた。そのために、十字架への道を歩んでおられたのである。

<結び> 最後の晩餐の席で語られたこれらの教えを、弟子たちは、よく理解できなかった。なるほどと分かったのは、復活した主イエスにお会いしてからである。あの時、主は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われていたと。また「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われた通り、主イエスこそ救い主キリストと、はっきり信じることができた。この方以外に救いはないこと、信じてお従いするのは、この方のみと、復活の証人となったのである。

 私たちも、不思議な神のみ手の中で、十字架の主イエス・キリストを信じる信仰に招かれ、導かれている。主イエスは、私たち一人一人に対しても、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、語りかけて下さっている。その語りかけは、折に触れ、また時に叶ってである。この受難週の時、十字架のみ業を心に留めて、神を信じ、また主イエスを信じる信仰に立ち続けることが導かれるように。また、この時に、はっきりと造り主なる神を信じ、罪の身代わりとなって十字架について下さった主イエスを、救い主キリストを信じるよう、主イエスが招いて下さっていることに応答することが導かれるように。一人一人、自分の信仰が確かなものとされるように。