礼拝説教要旨(2016.03.13)
わたしは良い牧者です
(ヨハネ 10:1〜18)

 来週は受難週、再来週はイースターを迎える季節に、十字架に向かって歩まれた主イエスに目を向けたいと思い、導かれたのが今朝の聖書個所である。昨年も、同じ時期に同じ個所を読み、同じ説教題であったが、思いを新たにして主イエスの教えに耳を傾けてみたい。十字架に向かって歩まれた主が、どんな思いでおられたのか、弟子たちをはじめ、人々に何を知ってほしいと願っておられたのか、そんな主イエスのお心に触れたいと、やはりこの時期に思うからである。主イエスの熱い思いを、読み取れるなら幸いである。

1、主イエスが人々に、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と教え始められたのは、30歳の頃からであた。(マタイ4:17、ルカ3:23)その前にバプテスマのヨハネによって、多くの人々が神の前に罪を悔い改める備えが導かれていたので、主イエスの教えは、たちまちの内に広がって行った。するとユダヤ人の指導者たちが危機感を抱き、次第にイエスと対立することになって、遂には十字架刑へと行き着くのである。イエスの公の生涯は3年から3年半であったが、10章は対立の深まる後半のことである。ユダヤ人の指導者とご自分を比べながら、「わたしこそ、父なる神から遣わされた救い主である」と、自らを名のっておられた。「わたしは羊の門です。」(7節)「わたしは門です。」(9節)「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(10節)「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。・・・また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(14〜15節)「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(18節)主イエスご自身が、「わたしこそが約束のメシヤ、キリストである」と、心を込めて語っておられた。

2、ユダヤ人の指導者については、厳しく責めておられる。旧約聖書を知っていながら的外れな教えを語っていたからである。「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は盗人で強盗です。」(1節)「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(10節)彼らの行状については、「牧者でなく、また、羊の所有者でもない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(12〜13節)ユダヤ人の指導者に対する主イエスの指摘は厳しく、辛辣であった。この後、彼らは益々怒り狂い、イエスを石打ちにしようとするまでとなる。(31節)しかし、イエスは彼らの手から逃れられたので、その騒ぎは何とか収まっている。(39節)十字架で身代わりの死を遂げるため、人となられた主イエスであるが、その時はまだ来ていなかったからである。何のために世に来られたのか、その目的は明確であり、一点の迷いもなく使命を果たそうとされていたことが分かる。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」「また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」「わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(18節)

3、弟子たちは、そうした大切な教えを聞いても、その時はほとんど理解できなかった。彼らが理解できたのは、十字架の死と死からのよみがえりを見届けて後であった。そして、やがて福音書が記されるのである。弟子たちの理解は、ペンテコステの日に聖霊が下ったことにより、一層はっきりとなり、以後益々、確信に満ちて歩むことができた。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」との言葉が、弟子たち一人一人の心の中で思い出されていた。主イエスは、その言葉の通りに十字架でいのちを捨てられ、罪の代価を支払って下さったと、心から感謝することができた。牧者である主イエスと、羊である自分たちの関係が、何と麗しく幸いなことか、喜びをもって思い返すことができたのである。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」弟子たちにとって、主との親しい交わりに勝るものを、他に見出すことはできなかった。けれども、「わたしはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。・・・」とも、主は語っておられた。(16節)弟子たちは、その主イエスのお心を思って、復活の証人として歩むことを、喜んでするようになった。羊のために死なれた牧者こそ良い牧者であり、この方のことを宣べ伝えたいと、願わずにはおれなかったのである。

<結び> 私たち人間は、一体何に守られ、また支えられて生きるのが幸いなのであろうか。絶対に一人では生きられない。何を頼りとするのが良いのだろうか。肉体のいのちは、どんなに長生きをしたとしても、必ず終わりを迎える。それなら思う存分好きなことをして、自由に生きたら良いのだろうか。しかし、どんなに自由に生きたとしても、それで満足の行く人生を送れるわけではない。私たち人間の心は、目に見えるものや手で触れるものによっては、決して満足することはない。人の心は、目には見えない霊的なものを、必ず求めるものだからである。人がどんなに否定しても、神によって造られた人間は、造り主なる神との関係において、心が満たされなければ、どんなことがあっても、本当の満足を得ることはないのである。大事なことは、神が遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じることである。主イエスご自身が「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われたこと、その言葉を心に刻み、自分が、良い牧者に導かれ、守られ、育まれている羊であると、心から認めることである。主イエスは、私たちに永遠のいのちを与えて下さるために、世に来られ、十字架の死を遂げて下さった。良い牧者である主イエスが、私たちを常に守り、支えて下さるとは、何と幸いなことであろうか。受難週とイースターに向かうこの季節に、主イエスの十字架と、十字架の死からのよみがえりを、いつも心に留めて歩むことが導かれるよう祈りたい。(詩篇23:1-4・・・)