礼拝説教要旨(2016.02.28)
屠られた小羊を
(柴田 敏彦 師  黙示録 五章)

 五章の四節をお読みします。 「巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。」
ここに、大泣きの老使徒ヨハネの姿を見ます。天の御座における神の御手にある巻物を目にしながら、これを扱うのにふさわしい者がいないゆえの涙でした。「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」との叫びが天にも地にも響き渡るが、「私がおります」との声は聞かれない。「だれか」との声が再び発せられて、また静けさが戻る。失望の涙です。七つの教会への手紙に見るように、地上の教会は信仰の戦いと苦難との中に置かれていました。この御使いの呼びかけについて、ある注解者はこう言います。
 神に対して明らかに反逆しており、この時に到るまで神の器、神の使者を拒否して来た世界に抗して、また、この世において支配を奪い取っている諸力と悪魔の意志とに抗して、またその武器となっている悪魔の軍勢の意志に抗して、この神の意志を果たすことのできる者はだれか。
との呼びかけである、と。
 ヨハネの涙は、巻物の中を覗きたくての失望の涙ではありません。神のみ旨が定められ、封印されているのに、その重大なみ旨を受けて実行する者がいない、御心が実現を見ないでいることへの嘆きの涙と思われます。こういうことでは、私たちはなかなか泣きませんね。「御心が天になるごとく、地にも」と祈りますが、地上にどれほど神のみ旨がなされているでしょうか。神のみ旨を思って大泣きするほどに、御心が地上になることを熱く願う者であれ、とヨハネの涙を見て思います。

 しかし、ヨハネのこの涙は空振りでした。泣くことはなかったのです。神の側では、すでに手が打ってありました。五節に、
「すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」」
誰もいなかったわけではない。すでにおられたのです。その方は「ユダ族から出た獅子」、「ダビデの根」と言われています。メシヤなるイエス・キリストのことです。なぜ、初めからそう言わないのでしょう。脚注にあるように、「ユダの獅子」は創世記四九章九節に、「ダビデの根」はイザヤ書十一章一節と十節に出てきます。つまり、「約束どおり」ということなのです。約束どおりに、ここに封印を解くにふさわしい方がいます、と答えていることになります。遠い昔から計画済みであり、すでに準備は計画どおりに整っていたのです。
 ここでは、「ダビデの根が勝利を得たので」と言われています。これが封印を解くにふさわしいとされる理由です。イエス・キリストは十字架に死に、葬られ、三日目によみがえられて、罪と死に勝利されました。約束どおりに、そこまで備えを完了して、「ふさわしい」との資格を持つお方となられたのです。
 この声を聞いて、涙を拭い、ヨハネが見たのは、六節、 「さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」
と、「獅子」ではなく、何と小羊なのです。それも、犠牲として「ほふられたと見える小羊」です。「勝利者」と聞いて目を上げたのに、これでは、再び項垂れてしまいそうです。勝利者というなら、同じ動物でも強そうなものを選ぶものです。ちなみに、アメリカのシンボルは鷲で、フランスは虎、ソビエトは熊、イギリスは獅子といった具合です。しかるに、弱く、頼りないものの代名詞みたいな小羊こそが神の国のシンボルなのです。キリストは十字架に死に、三日目の復活までは死の力の下にとどまられました。それで、「ほふられたと見える小羊」なのです。ほふられた羊は立っていることなど出来ないものですが、この小羊は立っています。よみがえられて、死に勝利したお方だからです。

 天の御座に、神の独り子なるイエス・キリストの登場となります。宝石のような輝きに譬えられた父なる神。「ともしび」と描かれた聖霊なる神。そして「ほふられた小羊」の子なる神とが揃い、天に三位にして一体(ひとり)の神ありとなります。
 これはヨハネが四章二節で「たちまち私は御霊に感じた」と始まった、聖霊のお働きによる幻の中での体験です。それで、勝利した小羊の姿も実に象徴的です。ヨハネは細かく観察して、
これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。  
と、六節後半に記します。角は権力の象徴です。もともと「七」という数は黙示録の中で完全を著す数ですので、七つの角と七つの目を持つ小羊は、全能にして全知なるお方であるとなります。それで、この小羊は、巻物に記された神のご計画を完全に実行できるお方となります。七節に、
 「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」
と、場面は展開し、あっけないほど簡単に受け渡しが終わります。受け取る側にも渡す側にも何の躊躇もなく、あっさりと渡されます。父と子の間でのことだから当然かも知れませんね。でも、受け取るにふさわしいとされた理由は神の独り子であるからではありません。「ほふられたと見える小羊」だからなのです。とても大切な点です。「ほふられた」とは十字架上での死です。
キリストは、人としての性質をもって現われ、ご自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
と教えるのは、ピリピ書二章八節です。十字架の死に至るまで忠実に父なる神のみこころに従われたお方に巻物が、つまり終りの時に至るすべての権限が託されたのです。神のみ旨は、ほふられた小羊であるキリストの手によって完璧に成就、実現されて行くことになります。この世がこのお方を拒み、神の独り子なることを認めず、その十字架を嘲ろうとも、キリストこそがこの世界を終りの日へと導き、これを終結させ、新たな祝福に満ちた永遠の世界を来らせて下さるお方なのです。

 巻物がほふられたと見える小羊の手に渡ると、八節、
「四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」
と、小羊への礼拝が始まります。彼らの手にあるのは金の鉢です。中には香がいっぱい入っています。その香は聖徒たちの祈りです。この一言で、天上の世界と地上の教会が?がります。地上の聖徒たちの祈りが神のみ前に届いています。それに、祈りの入れ物は金の鉢です。どれほど大切なものとして扱われているかが分かります。その量は、スカスカでなくて、「いっぱい」です。どんなに熱心に地上の教会が祈っているかが伝わってきます。地上の聖徒たちの祈りが、立ち上る香の芳しい煙となって神のみ前に届き、神の御座を包むのです。回心の祈りも、感謝のいのりも、悔い改めの祈りも、とりなしの祈りも、言葉にならない呻きのような祈りも、みんな神の御前に立ち上る香となるのです。「だから、祈りに励みなさいよ」と、祈り心をかき立てられる光景です。

 九節、十節に、この聖徒たちの祈りとともに天上の礼拝が始まります。 「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」」
 巻物を受け取り、その封印を解くにふさわしい方と言われるキリスト。その理由がこの賛美の中でも明らかにされます。「ほふられて」、「その血により」、「人々を贖い」との文字が目に留まります。ふさわしいとされるお方は贖う方であり、贖いの血を流すことなしに巻物を手にすることはなかったのです。この巻物の封印が解かれると何が起こりますか。次の六章が描くのは地上に下される数々の災いです。裁きの到来です。六章の最後には、「御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」との叫びが記されます。しかし、この裁きの日が救いの日より先に来ることはないのです。その手に十字架の傷跡のある者がこの巻物を受け取るにふさわしいとされていたからです。「ほふられた小羊」の手に裁きの権能が与えられるのです。この順序です。万が一にも、頭っからの裁き一本でしたら、人類はただの一人も救われずに終わるのです。「ほふられた小羊こそがふさわしい」とされていたこと、本当に有り難いことではありませんか。
 しかも、この贖いは「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から」とあるように、全世界に及びます。これもまた、感謝なことです。神は、ただ一つの民族の救いで良しとされなかったのです。さらに恵みを数えるなら、罪と死から贖い出されただけでなく、十節にあるとおり、
この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。
と、さらに高く引き上げて下さいます。神に逆らい、罪の中に生きていた者たちをご自身の栄光と力とに与れる王国とし、祭司として御そば近くに仕えさせて下さるのです。「その血によって、私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者として下さったのです」(ヘブル9:14)。さらに、二章の二七節、二八節でのテアテラ教会への約束のように、「地上を治める」と、キリストの御支配にともに与る者とまでされているのです。
 ところで、ここに「神のために」ということばが二度用いられていることにお気づきですか。九節では「あなたは、ほふられて、その血により、神のために人々を贖い」とありますし、十節にも「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とし」と二つ並びます。キリストは、これらすべてを父なる神のために為さっていたのです。となれば、贖われて王国とされ祭司とされた私たちも、お互いに「良かった、良かった」では終われないのです。御子なるイエスご自身が、御父の栄光のために十字架の苦悩を忍ばれたのに、そうして贖い出していただいた私たちが父なる神の御栄えを願わず、第一とせぬ、とあっては、とんだ鬼子となります。贖われた私たちの歩みが神にお仕えし神のみ栄えのためにとなってこそ、そのために十字架の苦しみを忍ばれた小羊なるお方と一つ心になれるのではありませんか。

 小羊への誉め歌は続きます。十一節、十二節、
 「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」」
 天使が雲のごとく天空一面を覆い、声を一つにして神の小羊なるキリストを褒め称える光景です。いつも小さな集会で礼拝を捧げていますと、「大いなる全能の神」と歌ってみても、果たしてどれくらいの「大いなるお方」のイメージを抱いているものでしょう。この天の光景は凄いものです。万の幾万倍を文字どおり数えれば一億でしょう。五百人とか、千人の聖歌隊と言ったら凄い迫力でしょう。それどころではない、巨大な合唱団が小羊を褒め称えているのです。「天に御心の成るごとく、地にも」と本当に願わされますね。地上の賛美は、世の騒音にかき消されそうなのですから。
 天の御使いたちの賛美は、その数もさることながら、彼らは、「大声で言った」とあります。力一杯の賛美です。小声でぼそぼそでなく、確信に満ちた大声での宣言のように、「ほふられた小羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と誉め歌います。先の六節では「ほふられたと見える小羊」でしたが、ここでは、はっきりと「ほふられた小羊」となっています。十字架に死なれたキリストです。この方に「力、富、知恵、勢い」を受けるにふさわしい方と歌うのです。十字架のキリストとは全く反対のお姿です。イザヤ書五三章二節に、
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
と言われています。このお方がほふられる小羊でした。人々が、この方に見たのは何でしたか。「力」ですか。処刑場に引き立てられて行くキリストは、自分の十字架も担い切れずに、あの通りすがりのクレネ人シモンに背負ってもらって、やっとゴルゴタにたどり着いたのです。富はどうですか。その頭を飾ったのはイバラの王冠でした。知恵は? 十字架のキリストはユダヤ人にはつまずき、ギリシャ人には愚かと映ったのです。蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれなかった。勢いだって、無縁のものでした。どこに、人々が目を見張り、憧れ慕う「勢い」がありましたか。ぼろ布のように十字架に掛けられたキリスト。ほふられた小羊です。
 しかし、このお方こそ、「力と富と知恵と勢いと」を受けるにふさわしい方でした。ただ、ほふられるために「ご自身を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」(ピリピ2:7)のです。神のあり方というなら、力も富も知恵も勢いも、この方のものなのです。受けるにふさわしいと言うのは、もともと持っておられたものだからです。逆に、何がふさわしくないかと敢えて言うなら、神の独り子の「ほふられた小羊」のお姿こそ、人類の罪を贖うためでなかったら、決して取られることのない、全く不似合いなお姿なのです。 今、そのほふられた小羊に、天の大軍勢が、「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と歌って、栄光、誉れ、賛美を帰しているのです。ほふられた小羊に、今度は全くふさわしく、です。

 天における賛美のフィナーレとなる十三節は、神が造られた全被造物の賛美です。
「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」」
これを見、聞いているヨハネが、たった一人、この天での大礼拝と、全被造物の賛美の目撃者です。万の幾万倍のみ使いの合唱に続いて起こった、この光景に大いに圧倒されながらも、心は大きな喜びに満たされていたことでしょう。この命ある全てのものから誉め歌を受けるにふさわしいお方を救い主として親しく知っているのです。この日まで、自分自身の主なる神と信じて歩んで来ていたのですから。
 それに、この最後の賛美の場面では、御座に座る方と小羊とが、お二人並んで賛美を受けています。父なる神と子なる神、お二人が等しく「賛美と誉れと栄光と力」とをお受けになっているのです。父とともに崇められている小羊なるお方、人となられた神の御子のイエス様です。
 このヨハネは、若い日に、もう六十年も昔の話となりますけど、あの最後の晩餐で、そのイエス様のとなりに親しく席を得ていました。十字架の下に立ち、イエスの母マリヤを託されたのもヨハネです。父なる神とともに全被造物がどよめき称えるお方が、あの時のイエス様と同じお方なのです。黙示録がなかったら、地上におられた「ほふられた小羊」のイエス様は知っていても、父とともに賛美と礼拝の中心におられる栄光の主のお姿を知ることはできなかったでしょう。父なる神の右の座に着いておられると教えられてはいても、です。
  
 ヨハネの涙に始まり、全被造物の大賛美に至るという動きの激しい五章でした。その中心となる小羊礼拝は、「地上の聖徒たちの祈り」の場面からはじまりました。天における小羊への礼拝と、それに続く全被造物の賛美とは、この祈りというかぐわしき香りを伴ってのできごとです。
 金の鉢いっぱいの香として御前に立ちのぼる祈りは、天の礼拝の脇役ではなくて、最初からそこにある、そこにそれがあって礼拝が始まる重要な役割を持っていたことになります。
 ほふられた小羊によって「王国とされ、祭司とされた」多くの民が地上にいるのです。金の鉢いっぱいの香がそのしるしです。その祈りというしるしが立ちのぼる中、天上界でも救い主の御名が誉め称えられているのです。私たちを聖めて御国の民とし、神に仕える者とする主イエスの血による贖いの確かさ、豊かさを知るものです。 
 この救いをもたらして下さった、「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」との天上の賛美に、十四節、「四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」
と、御前に静まって、黙示録は、いよいよ激しい裁きの光景へと移っていきます。
 その前に贖い出された者として、私たちも「アーメン」と心の中で唱和し、小羊を褒め称える讃美歌の十六番を、この後歌いたいと思います。