礼拝説教要旨(2016.02.21)
心を満たして下さる神
(使徒の働き14:8〜18)

 ピシデヤのアンテオケからイコニオム、そしてルステラとデルべへと、ユダヤ人たちからの難を逃れながら、その地方でパウロとバルナバは福音を宣べ伝えていた。福音はどの町においても人々の心を捉えた。十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを、救い主キリストと信じる弟子たちが起こされていた。ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも大勢の人々が信仰に入っていたので、それに反発するユダヤ人たちとは、どの町でも激しく対立することになっていた。8節以下は、そのようなパウロとバルナバの伝道旅行の一端、ルステラの町での出来事である。二人が、主によって大胆に語った時、主は、不思議なしるしを行われた。足の不自由な人が、その足を癒され、町中が大騒ぎになるのであった。(8〜11節)

1、ルステラは、イコニオムからは南に約40キロにあり、肥沃な平原に囲まれた丘の上に位置していた。小さな2本の川が流れ、ローマの植民都市として、少数のローマ人の軍人が支配階級を占めていたという町である。第二の階層はギリシャ人たちで、彼らは知識や教養のある人々と見られ、町の大半の人々は、ルカオニヤ地方の方言を話す、ごく普通の人たちであった。ローマ人はラテン語、ギリシャ人をはじめ知識階級はギリシャ語、一般の人々はルカオニヤ語と、町には、植民都市としての人間模様をがあったという。ユダヤ人たちも多くいたが、彼らはギリシャ語を話すユダヤ人としてその町に住み、自分たちの社会を形成していた。(※その中にテモテがいた。16:1-2)この町での特筆される出来事、それが足のきかない人の癒しであった。その人は、パウロの話すことに、真剣に耳を傾けて聞いていた。一日の一回限りの出会いでなく、数日に渡る出会いであったと思われる。主イエスを神の子、救い主キリストと信じる信仰が芽生えていることが、パウロの目にも明白となったので、「大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって。歩き出した。」驚くべき奇跡が、その時に起こったのである。

2、生まれながらの足の不自由が癒されるという奇跡は、その人に信仰があってのことであった。神を信じる信仰があって、その上で癒しの奇跡が起こったのは、神が本当に生きて働いておられることを、当人だけでなく、そこにいる人々にもはっきり示すためであった。奇跡的な癒しは、いつでも起こることではなかった。福音宣教の大事な場面で、神が必要とされる時、不思議なしるし=奇跡=が起こされている。そのようにして、ルステラで、主なる神ご自身が、パウロたちを用いて、奇跡を人々に見せておられた。ところが、多くの人々の驚きは、パウロたちを神として仰いでしまう、そのような事態へと発展した。人々がルカオニヤ語で話したので、二人は何事か、直ちには理解できなかったようである。人々の行動を見て、これは大変!と「衣を裂いて」、群衆を制止した。(11〜14節)人を神として崇めること、それは真の神が、最も忌み嫌われることである。人々はバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで、ギリシャ神話の神々として崇めようとしたが、それではイエス・キリストの福音が、全く空しいものとなる。それは断じてあってはならないことであった。

3、パウロが語ったのは、人間は人間、神は神、人間は神ではないという真理である。人間を神格化して崇めるのではなく、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている」と、造り主である神がおられることを語っていた。人間を造られた神がおられることを。偽りの神を礼拝することから離れ、生ける真の神にこそ立ち返るように。世の多くの人が、神がいるのかいないのか、人間には分からないではなか・・・と反論する。それに対してパウロは、「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」と言う。神ご自身は、溢れる恵みを人に注ぎ、いつでも手を差し伸べておられる・・・と。全ての人が、自分の思いのまま生きる道を備えられている事実、自然界からの恵みを日々受け、日ごとの糧を得て、知らずして心を満たされて生きている事実を思い起こすよう、パウロは語っていた。こうして、ルステラの大騒動は、ようやく収まった。(15〜18節)

<結び> 神を認めようと認めまいと、私たち人間の営みは、天地を造られた神の御手の中にあり、私たちは、神によって、日々、心を満たされているのである。私たちの心を満たして下さる神がおられること、この事実を忘れてはならない。パウロがルステラの町で語ったことは、神を知らず、また神と無関係に生きている人々であっても、人は、実に多くの恵みを神から受けながら生きている、その事実を心に留めるようにとのことである。パウロたちは、旧約聖書を知っている人々には、聖書から説き起こして語った。聖書を余り知らない異邦人の人々には、天地を造られた神がおられることを説き、空しい偶像礼拝から離れ、真の神にこそ立ち返るように語っていた。私たち日本に住む者には、きっとこの勧めを語るに違いない。(※詩篇65:9-13)

 天地を造られた生きておられる神が、私たち人間に自由を与え、それぞれに自分の道を歩むことを許して下さっていることを感謝しつつ、神がどれほど豊かに恵みを注ぎ、日々、私たちの心を満たして下さっているのかを、よくよく知る者でありたいと思う。「恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで」私たちの心を満たして下さっていることを。この日本の社会にあって、ほとんど誰でも、食卓に着いては、「いただきます」と、感謝の思いを口にしているのではないだろうか。何の苦労もなく、食事が備えられているのでないことを知っているからであろう。人が介するのはもちろんであるが、私たちは、生ける神がおられること、造り主なる神が私たちの心を満たして下さっていることを感謝し、神と共に歩む者でありたい。そのために、主イエス・キリストを救い主と信じるのである。私たちは、真の神のもとへ立ち返ってこそ、生きる希望や力をいただくことができるのである。