礼拝説教要旨(2016.02.14)
主によって大胆に語る
(使徒の働き14:1〜7)

 ピシデヤのアンテオケは南ガラテヤ地方の中心地で、地中海沿岸からは北に位置する高原地域であった。パウロたちがなぜその地方に向かったのか、病気の治療のためであったのではないかとの諸説があるが、定かではない。その町での宣教は確かに実を結んだ。けれども、ユダヤ人による反抗が激しく、パウロとバルナバは、抗議のしるしを込め、「足のちりを払い落して」イコニオムへと移って行った。アンテオケから南東に百五十キロ弱の所にあった町、交通の要所にあり、古くから栄えていた。二人はこの町でも、先ずは会堂に入って、人々に話をする機会を得た。主イエスのことを語り、十字架にかかって死なれた方、その方がよみがえられたことを信じるようにと勧めた。(1節)

1、イコニオムでも、「ユダヤ人もギリシャ人も大ぜいの人々が信仰に入った。」と同時に、二人が語る福音を聞いて心を閉ざすユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかしてまで、福音の広がりを妨げようとした。二人がすることは町を混乱に陥らせることであり、そんなことをさせてはならないと、彼らの評判を落とすことに努めたようである。けれども、反対派が強力になるには時間がかかったようである。様々な妨害があった中で、「それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。」(2〜3節)二人は、「主によって大胆に語る」ことを続けた。ひるまず、躊躇わず、堅く立って語った。二人が語る時、主は、「彼らの手にしるしと不思議を行わせ」、それによって「御恵みのことばを証明された」のであった。彼らが語る言葉が神からのものであることを、人々に分からせておられた。人々には目に見えるしるしが示され、多くの人が、驚きをもって、イエスを信じる信仰へと導かれた。ところが、心を閉ざすユダヤ人たちは、町の異邦人たちを取り込もうとした。(4節)

2、結局、町は二分され、「ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。」事は、深刻な対立であって、ただならない争いが、いよいよ勃発しそうになっていた。(5節)町を二分する争いは、そう容易く起こることではない。けれども、主イエスの復活を信じるか否かは、必ず人々を二分する。それほどに、「十字架のことば」、また「イエスの復活の出来事」は、人々の心を刺し貫く事柄である。真の神を信じるか否か、イエスの復活を信じるか否か、そして、十字架を自分のこととして受け留めるか否か、これらは、真理として人の心を照らし、同時に、人の心を刺し貫く出来事なのである。だからこそ、パウロとバルナバの二人は、福音を語る時、「主によって大胆に語る」ことを恐れず、毅然として語り続けたのである。そして、いよいよ命が脅かされそうになった時、その難を避け、次の町へと向かって行った。それはギリギリのところでの主の介入であり、福音は着々と前進したのである。二人は主に守られて、イコニオムから南下し、ルステラへ、そしてデルべへと進んで行った。(6〜7節)

3、パウロとバルナバの伝道において、特徴的なことの一つが、人を恐れずに、「大胆に語る」ことであった。先のアンテオケでも、「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちに相応しくない者と決めたのです。・・・」と、「はっきりとこう宣言」していた。(13:46)彼らが大胆に語り、恐れずに宣言できたのは、主が共におられるとの確信に基づいていた。主がついておられるので、いつでも、どこでも、心を強くされて語ることができた。この特徴は、他の弟子たちの姿にも明らかである。ペテロたちは、「みことばを大胆に語らせてください」と祈って、そのように語っていた。(使徒4:29)彼らは主イエスを信頼するからこそ、主が、語る言葉を備えて下さると信じていた。それで大胆に語ることができたのである。そして、主も、ご自身の手を伸べ、ご自身の御業を行われた。私たちが日々生きること、歩むことの基本、あるいは原則がそこにある。主に信頼して堅く立つこと、語る時には、言葉を与えらえると信じて語ること、全てにおいて、主によって大胆に・・・である。(※共同訳「・・・主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」3節)

<結び> パウロたちが、どこにあっても「主によって大胆に語った」その姿は、主イエスを信じて従う弟子たちの生き方の基本、あるいは原点である。すなわち、私たちが学んで、身に着けるべき基本中の基本、依って立つべき土台そのものである。言葉においても、行いにおいても、「主によって大胆に」あるいは「主を頼みとして勇敢に」が、確実に身に着くなら、私たちは、もっともっと心を強くされ、恐れなく歩ませていただけるに違いない。その時、主は、私たちを用いて、主ご自身が生きて働いておられることを証明して下さるからである。私たち自身では、何のこともない小さなこと、取るに足りないことであっても、主に在って、途方もない大きな証しとなることを、知らずしてさせていただいている、そんな証しが、私たち一人一人に必ずある。一人一人の人生は、そのように尊いものであること、そのことを覚えて感謝したい。「主によって大胆に語る」、そのような生き方を身に着けさせていただくことを祈り求めたい。日々の生活の全てにおいて! 私たちは、十字架の死からよみがえられた方を信じている。この方、主イエス・キリストを信じる信仰こそ、何ものをも恐れることのない勇気や希望の源である!
(ペテロ第一1:18-21)