礼拝説教要旨(2016.02.07)
神のことばを聞く人々
(使徒の働き13:44〜52)

 ピシデヤのアンテオケでの伝道は、順調な滑り出しを見せていた。最初の安息日、会堂で奨励のことばを語ったパウロは、もはや朽ちることのない方、すなわち、十字架の死からよみがえったイエスを信じる信仰に進むよう、人々に勧めたのであった。多くの人が心を動かされていた。それで次の安息日にも、同じことについて話してほしいと頼んだり、二人について行って、話し込んだりしていた。そして「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」群衆となって人々が集まる様子は、その町のユダヤ人たちの心を、大いに刺激することになった。(44〜45節)

1、最初の安息日にパウロが語ることを聞いた人々の中で、その教えに心を動かされたのは、「多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たち」であった。彼らは神を恐れ敬う人々であり、聖書の教えに聞き従いたいと、心から願う人々であった。パウロが語る言葉に、これまで聞かされていたのとは違う、新鮮な教えがあることを聞き分けていた。その人々が口々に呼びかけ、パウロとバルナバのことが町中に知れ渡り、多くの人々、それも異邦人が多く集まったものと思われる。もちろんユダヤ人がいたが、異邦人の多さに、町の大半のユダヤ人たちは妬ましさを覚え、イエスのよみがえりを説く教えに、心を閉ざすことになった。会堂での礼拝の間は、幾らか慎んだと思われるものの、遂には「パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」パウロとバルナバは、そのような反対を予測していたのであろうか。二人は言った。「『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。・・・』」彼らは、いよいよ異邦人への伝道を、はっきりと心に留めさせられることになった。それが主なる神ご自身のご計画であることを。(46〜47節)

2、福音を、先ずは同胞のユダヤ人に語るのは、全く自然なことであった。従って、ユダヤ人から異邦人への転換は、パウロにしてもきっかけが必要であった。それが明確となり、イザヤ書の言葉に押し出され、迷うことなく、「異邦人の光」となって前に進む決心がついた。パウロが語る言葉は、異邦人たちを勇気づけた。「異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。こうして、主のことばは、この地方全体に広まった。」ギリシャ人をはじめとする異邦人たちも、神の前に救いを必要とする人々であった。彼らも真の救いを待ち望んでいたのであり、たましいの平安こそ必要であった。死からよみがえられた主イエスこそ、救い主キリストと信じて、罪の赦しが与えられ、たましいの平安が与えられた人々は、神によって「永遠のいのちに定められていた人」たちであった。彼らが、神の恵みの内に留まり、神にある喜びと平安を証ししたので、福音は、その地方全体に広まったのである。(48〜49節)

3、「主のことば」の広がりは、この地方で目覚ましかったが、それは同時に、ユダヤ人たちの反発の広がりと増大を招いていた。たったの二週間だけであったか、もう少しの期間があったか、その点は定かではない。けれども、ユダヤ人たちは町の有力者たちを動かして、パウロとバルナバを追放しようとした。お金や人が動いたに違いない。二人は石を投げつけられたか、かなりの騒動の中で町を去ることになり、その時、「彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。」(50節)イエスが弟子たちに教えられたように、「足のちりを払い落として」町を去るのは、打ちのめされて次に向かうのではなく、人々の拒絶は主に対することであると知って、主から力をいただいて進むためであった。(ルカ9:5、10:10-11)パウロとバルナバだけでなく、主イエスを信じて弟子となった人々は、決して弱ることなく、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(51節)ユダヤ人による迫害は、福音が宣べ伝えられる所で、イエスのよみがえりを信じる者に向けられることになる。けれども弟子たちは、「喜びと聖霊に満たされ」、どこにあっても前進し続けていた。

<結び> パウロたちによって、「神のことば」が語られた時、すなわち、聖書の言葉の朗読と、その説き明しが語られる時、それを喜んで聞こうとする人々がいた一方で、それを苦々しく見ていた人々がいたことが、鮮明となる、そのような光景がそこにあった。パウロの話に反対した人々に対して、「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです」と宣言されている。パウロの話を聞いて喜んだ人々、主の言葉を賛美した人々については、「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰の入った」と。「神のことば」を聞く人々は、はっきりと二種類の人に別れる、ということである。であるなら、自分はどちらに属するのか、自分の立場を知ることが大事となる。聞いて受け入れるか否かは、自分の責任によることである。その時、必ず聖霊が働いて、受け入れるよう導いて下さる。けれども、それでも拒むのは聖霊を拒むことになり、それは「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです」と、そのように言われる。では信じて受け入れる人は、自分の決断をどのようにするのか。聖霊の導きに従う時、心から信じることができるのである。それで、「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った」と言われる。信じて、罪の赦しをいただくこと、たましいの平安を与えられ、喜びと感謝をもって歩めること、これに勝る幸いはない。私たちは、この福音を証しするよう、一人一人召し出されていることを忘れないようにしたい。