パウロの第一回伝道旅行は、キプロス島全体を巡って行われ、パポスでは魔術師との対決を経て、地方総督が信仰に入るという実を結んでいた。一行はパポスから船出して、地中海を北上し、パンフリヤのペルガに到着した。旅はまだ始まったばかりであったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰るという波乱も起きていた。けれども、バルナバとサウロ(パウロ)は、ペルガから陸路で北上し、ピシデヤのアンテオケに到着した。この町で、二人は福音を語ることになった。(13〜14節)
1、パウロの伝道には、それなりの原則があった。闇雲に何かを語るのでなく、安息日に会堂に入って、その時、語るきっかけを待つ・・・というやり方である。それは主イエスご自身がなさったことであり、先ずは旧約聖書を知っている人々に語ることである。当時、ローマ帝国の至る所に離散し、寄留していたユダヤ人社会には、必ず会堂を中心とした彼らの居住地域があり、安息日の礼拝のため、人々が会堂に集まっていた。礼拝日課には、旧約聖書の朗読があり、朗読の後、説き明かしのため、会衆の誰かが、それを担うことがあった。二人は会堂に入って席に着き、律法と預言者の朗読を聞き、その後で会堂管理者の勧めによって、パウロが人々に語ることになった。予め、そのように申し出ていたのか、あるいは、旅の二人にその役割を勧められたのか、どちらかであった。聖霊なる神ご自身が、それらのことの一切を導いておられ、パウロは勧めに従い、神を恐れて歩む人々に敬意を表しながら、神の民イスラエルの歴史を振り返るように語り始めた。ユダヤ人の多くは、神の民イスラエルとしての自負があり、アブラハムの子孫であることを拠り所としていた。アブラハムから説き始めて、イサク、ヤコブ、ヨセフと、エジプト移住からモーセに率いられてのエジプト脱出に至る、神の民の歴史を振り返った。(15〜17節)
2、更に、荒野での40年のこと、カナン定着までのこと、その後のさばきつかさの時代のこと、預言者サムエルの登場、そして、王を求めた民に、神はサウロ王を与えて下さったこと、その王が退けられ、遂にダビデが王となったことなど、それまでに約千年が経過していた、壮大な歴史を振り返っている。そして、神は、ダビデの子孫から、救い主が出ることを約束しておられたこと、その約束について、民は聖書の預言を通して知っていたことを前提にして、主イエスが来られたことを語った。救い主の先駆けとなったヨハネのことに触れ、神は救いの道を示しておられたのに、イエスはエルサレムで退けられ、十字架の死に追いやられてしまったことを明言した。安息日ごとに聖書が読まれ、救い主のことが告げれていたにも拘らず、救い主が退けられるとの預言を、人々が成就させたしまったことを告げたのである。イエスが語ることばを理解せず、罪のない方を死に追いやったのである。ユダヤ人の指導者たちはイエスを亡き者とし、墓に葬り、目障りな存在は退けた・・・と。(18〜29節)
3、「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえられせたのです。」神は生きて働いておられた。(30節)イエスは三日目によみがえり、弟子たちの前に、生きた身体をもって現われたのである。パウロ自身、最初は、そんなことはない、絶対に有り得ない!と、イエスの復活を信じることはできなかった。教えてはならない。広めてはならないと、イエスの弟子たちに対し、猛烈な敵意を抱いていた。けれども、イエスが生きておられ、自分にも現れて下さった時から、他の弟子たちと共に、イエスの証人となって、このイエスを救い主と信じるように、この知らせこそ良い知らせと人々に説いていた。(31〜32節)死者のよみがえりについては、それが詩篇の中でダビデに告げられていたことであり、神の約束であることが分かって、パウロは信じることになったのである。(詩篇16:10)特に、ダビデ王に約束されたことばを通して、全ての人が、必ず死んで朽ち果てるのに対して、ただ一人、イエスご自身は死からよみがえって、朽ちることのない方とされたこと、その対比が分かった。全人類の中で、主イエスのみ、「もはや朽ちることのない方」と。この方にこそ望みをかけ、この方による罪の赦しこそ信ずべきことである。この方にこそ頼るべきことなのである。どんな偉大な人も、有能な人も、力ある人であっても、必ず朽ちていく存在でしかない。だからこそ、誰を信じ、誰に頼るのか、私たちは、真剣に問い、追い求めるべきなのである。(33〜41節)
<結び> パウロは勧めの最後に、「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」と語っている。「罪の赦し」「この方によって、解放されるのです」と、神の前で、人にとって一番大事なことが、十字架で死なれ、死からよみがえった方、イエス・キリストとの関係にあることを告げている。神の前に、人が義とされ、罪の赦しをいただくには、主イエスをキリスト、救い主と信じること、これが唯一の道である。人は誰でも、自分の内側を見つめ、自分の生き方はこれで良いのか、良しとされないことがあるのか、それらを真剣に問うなら、顔を上げられる人はいない。神が裁き主なら、必ず裁かれ、退けられるに違いない。裁きの深刻さは、全ての人が死を免れられない事実にある。その裁きから救われるために、「もやは朽ちることのない方」を、神が備えて下さったのである。朽ちない方こそ、信ずべき方、依り頼むべきお方である。パウロの話を聞いた人々は、その日は信じなかった。けれども、次の安息日にも話してほしいと願っていた。私たちにとっても、主の日ごとに聖書に触れる礼拝が備えられているのは、真に幸いなことである。この神からの恵みを感謝して、信仰から信仰へと進ませていただきたいと思う。はっきりと主イエスを救い主と信じて、いつまでも神の恵みにとどまっていられるように。(42〜43
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