使徒の働きは、第13章より新たな段落となる。バルナバとサウロが伝道のためにアンテオケ教会から遣わされ、サウロの名前は「パウロ」と、ローマ市民としての名で記される。以下、「パウロの伝道旅行」を中心として、キリストの福音が、はるかローマにまで届く道のりが記される。福音は、当時の世界において着実に広まっていた。復活された主イエスは、弟子たちの一人一人を復活の証人として立て、福音を宣べ伝える器として、世に送り出しておられた。最初はエルサレムから、そして、次はアンテオケから・・・と、主のご計画は進展していた。(※1:8)
1、アンテオケの地で、福音が大きく進展するきっかけになったのは、散らされた人々が、それまでは、ユダヤ人以外の人々には主イエスのことを語らなかったのが、アンテオケに来てからは、ギリシャ人にも語りかけるようになったからである。既に弟子となっていたキプロス人とクレネ人がいて、彼らが積極的に語り始め、大勢の人が信じて主に立ち返った。(11:19-21)そしてバルナバとサウロが中心となり、教会は多くの働き人も備えられ、いよいよバルナバとサウロを送り出すことになる。主ご自身がサウロを召し出された時、主のご計画は、彼を異邦人に遣わすことにあった。(9:15)それでも、その計画が実行に移されるには、準備の時を設けられたのである。この二人を送り出すには、二人に代わる働き人が必要・・・と。アンテオケ教会には、「ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン」たちが、「預言者や教師」として用いられるようになった。シメオンは、主イエスの十字架を担った「クレネ人シモン」かもしれず、クレネ人が幾人も活躍していた。こうして教会は、主に従い、主に礼拝をささげて歩んでいた。(1節)
2、教会が、新たなステップへと踏み出すことになったのは、「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた」(2節)からである。当時、「断食と祈り」は、礼拝の大切な部分であった。神の導きを願う祈りが、断食を伴ってささげれていたものと思われる。その礼拝において聖霊の導きがあり、二人を「聖別して」、すなわち主の用のために取り分け、その務めにつかせなさいと、はっきり命じられたのであった。教会は、その導きを信じて従い、二人に手を置いて祈り、送り出した。この一連のことは、一同がよく祈り合い、話し合い、主がよしとされる時を待ち望んだ結果であった。サウロが召された時、主のご計画が告げられていた。そのことを教会は知っていた。バルナバは特に覚えていたと思われる。彼らは、いつも祈りの内に、主の時を待っていたのである。その時を、聖霊に導かれて確信した時、一同心を合わせて、次のステップへと踏み出すことになった。バルナバとサウロは、「聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。」キプロスは、バルナバの故郷であって、その地を第一回伝道旅行の最初の地と定め、彼らは出発した。真に冷静で、着実な一歩を踏み出していたのである。またこの時、ヨハネが助手として加わっていた。(4〜5節)
3、キプロスでは、島の東側のサラミスに着き、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ伝え、島全体を巡回して、西側の町パポスまで行った。その町で二人が経験したことは、「にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師」との対決であった。「この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。」(6〜7節)魔術師は、町の人々だけでなく、総督にも気に入られていたのか、官邸付のような立場を築いていたようである。総督が二人の教えに興味を示したと知るや、それを妨げることに懸命になった。自分の地位や利益が失われると思ったのであろう。総督が真の神を恐れる信仰に進まないように、信仰から遠ざけようとした。(8節)サウロはそれを見抜いて、毅然として対峙した。「聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。・・・」魔術を行うことに対して、それは「主のまっすぐな道を曲げること」と断じて、主ご自身が、直ちにそれを止めさせようとされると言い切った。すると、たちまち「かすみとやみが彼をおおったので」、彼は人の助けが必要となった。(9〜11節)当人の驚きばかりでなく、「この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。」今日に至るまで、世界中の至る所で、人々の心をもてあそぶ魔術がもてはやされている。そのような魔術から人々を救うのは、キリストの福音であることを、はっきりと心に留めたい。(12節)
<結び> この伝道旅行に遣わされたのはバルナバとサウロである。助手としてヨハネが加わっていたが、他にも同行者がいたかもしれない。彼らを遣わしたのは、アンテオケ教会であり、その教会を導いていたのは「聖霊」であった。すなわち、主イエス・キリストご自身である。主が聖霊によって教会を導かれる時、実際に何か、超自然的な現象があったのだろうか。ほとんどなかったであろう。教会の全ての業が、聖霊なる神によって導かれる事実は、何か超自然なことが起こることではないのである。教会が礼拝をささげ、そこで断食と祈りをし、そして働きのために道が示されるなら、それは、確かに聖霊に導かれてのことである。それは理性的で、自然で合理的な事柄なのである。そのようにして、「ふたりは聖霊に遣わされて」、キプロスに渡った。そこで会うべき人に出会い、語るべき言葉を与えられ、聖霊に満たされて語った。キリストの福音は、そのようにして広まって行くのである。聖霊に導かれる・・・とは、とても理性的で、また合理的なことである。主イエスは、教会が物事をよく考え、物事をしっかり判断して歩めるよう、聖霊を与えて下さっているのである。(※聖霊を与えられていない人々の多くが、自ら判断ができず、魔術や占いに頼っているのが、この世の現実ではないだろうか・・・。)
今日、私たちがする宣教の業も、聖霊の導きなしには有り得ない、という事実を覚えたい。私たちの教会も、聖霊によって遣わされて、この地で証しするよう導かれている。礼拝そのものが、聖霊の導きや支配の下にあり、様々な話し合いや祈りの結果として、何かの決定がなされるのは、聖霊の導きによることである。私たちの思いではなく、主ご自身が私たちに担ってほしいと、そのように望んでおられることを、私たちは知らずして担っていることもある。だからこそ、主の御心にそう尊い務めを、私たちが喜んで担うことができるよう、私たちは一層、聖霊に導かれて歩みたい。主イエスは、助け主としての聖霊を送って、世の終わりまで私たちと共におられるからである。(マタイ28:19-20) |
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