礼拝説教要旨(2016.01.17)
おごる者への裁き
(使徒の働き12:20〜25)

 ユダヤの地方を治めるヘロデ王は、教会を迫害することによって、ユダヤ人たちの歓心を得ようとしていた。弟子の一人ヤコブを殺し、次はペテロと、思うままに実行したものの、生ける神ご自身は、それをお許しにならなかった。御使いを遣わし、暗闇の牢を光で照らし、ペテロを牢から解放した。ヘロデは面目を失いながら、強がることを止めることなく、カイザリヤに引き返していた。キリストの教会は、次々と困難に直面しながら、必ず、神の御手に守られて前進した。使徒の働きは、その後のヘロデ王のことに触れ、神の御手の確かさを明らかにしている。神は生きて働いておられ、歴史を支配しておられる。人にとっての第一のこと、それは神を恐れて生きることである・・・と。

1、ヘロデ・アグリッパ一世は、紀元37年に王の称号を与えられた時、ピリポとルサニヤの領地を与えられていた。そして39年に、ヘロデ・アンティパスの領地、ガリラヤを受け継ぎ、41年には、クラウデオ帝よりユダヤとサマリヤを与えられ、ユダヤ全域の支配者として君臨していた。ローマ皇帝の強力な後ろ盾を得ながら、近隣の民との関係でも、力を誇示することで威厳を保とうとする、そのような王であった。「さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた」というのは、地中海沿岸の地方の町、ツロやシドンなどフェニキヤ地方の町々と、ヘロデが対立していた事情を物語っている。それらの地方は、食料をユダヤ地方に頼っていたが、何らかのことでヘロデの怒りに触れ、このままでは大変とばかり、和解を求めて、「みなでそろって彼をたずねた」のである。(20節)「王の侍従プラストに取り入って」とあるように、王の気持ちを繋ぐにはどうしたらよいか、どのように話すのか、いろいろな方策を考え、王の前に出る日に備えたのであった。

2、「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。」(21節)彼は、きらびやかに飾り立てた王服を身にまとい、ヘロデ大王が建設した劇場に現れて、演説をしたということである。(※ヨセフォス「古代史」による)ローマ皇帝をたたえながら、自分の栄誉を見せびらかし、人々からの賛辞に酔いしれることになった。「そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。」(22節)王に媚びようとした人々が、考えて準備した通り、ヘロデの心を動かす言葉を一斉に叫んだ。彼は、人々の言葉を喜び、浮かれてしまったが、その時、「主の使いがヘロデを打った。」聖書は、ズバリ「ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」と記している。(23節)ヨセフォスの「古代史」では、ヘロデ王に激しい腹痛が襲い、その五日後に死んだとされている。使徒の働きの記述は、その日のその時、たちまちに打たれ、息が絶えたように読める。それは、彼が神に栄光を帰さず、自分の栄誉をひけらかしていた、その時に何らかの異変があったことを告げている。そして、それが元で彼は命を絶たれた。確かに、神がヘロデを打たれた。人の賛辞に浮かれる者、おごり高ぶる者への裁きが下されたのである。(※虫について、さなだ虫の幼虫とか、蛆虫とか言われ、新共同訳は「蛆に食い荒らされて息が絶えた」と訳している。)

3、以前、ペテロがカイザリヤのコルネリオの家に来た時、人々がひれ伏して彼を迎えたことがあった。その時、ペテロは「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言って、自分は人間であることを、はっきり告げていた。(10:25-26)人からどんなに称賛されても、神に並ぶ者と、おごってはならない。神は、おごる者、また高ぶる者を、必ず退けられるからである。神の裁きと思える驚くべきことが起こると、人々の目には弱々しく見える教会であっても、神の御力の支えのあることが明らかになる。イエスをキリストと信じる弟子たちは力づけられ、勇気を与えられて進むことになった。教会は迫害や、様々な困難の中にあっても、成長することができた。「主のことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」教会の成長のカギは、「おごり高ぶる」ことの正反対、「慎みとへりくだり」を決して忘れないことにある。神の前にも、また人の前にも、心を低くして歩むこと、大きな力に翻弄されても、それでも神を信じて従うことを見失わずに歩むなら、全能なる神ご自身が、教会を支え、世に送り出して下さるのである。初代のキリスト教会は、様々の試練の中を歩んでいた。ヘロデが死んだのは紀元44年、その頃、「任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。」(24〜25節)マルコはバルナバのいとこで、この後、パウロの伝道旅行に同行することになるのである。(コロサイ4:10、使徒13:5))

<結び> 「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言3:34)「しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」(ヤコブ4:6) 生ける神が私たち人間に求めておられることは、「へりくだること」「心を低くすること」である。主イエスを信じる者、主イエスに従う者は、主イエスご自身の、十字架の死に至るまでのへりくだりによって、罪の赦しを与えられたことを知っている。その信仰によって、自らもへりくだることを学びながら、地上の生涯を生き抜くのである。キリストの教会は、そのようにしてのみ、真実な証しを立て、主によって用いられることを覚えたい。ヘロデの姿は、私たちへの警告である。他方、初代の教会が、ますます盛んになったのは、主イエスの教えに従ったからである。私たち一人一人、そして私たちの教会全体が、今の世にあって、しっかりと証しを立てて歩めるように祈りたい。主の御手に導かれ、また支えられて。