バルナバとサウロに導かれたアンテオケ教会は、大飢饉に見舞われたエルサレム教会を支援しようと、「それぞれの力に応じて、・・・救援の物を送ろうと決め」、それを実行した。集められた救援の物資は、バルナバとサウロの手によって届けられた。初代のキリスト教会は、福音を宣べ伝えるだけでなく、互いの弱さや欠けを思いやる行動を、迷うことなく実行することによって前進していた。キリストの教会は一つであることを知って、支え合う心を養われながら歩んでいたのである。その頃、エルサレムにある教会は、飢饉による痛みの中で、ユダヤ人からの迫害に加え、ユダヤを治めるヘロデ王による迫害に直面することになった。(1〜2節)
1、エルサレムの教会には、もともとユダヤに住む人々、ヘブル語を話すユダヤ人の弟子たちが残っていた。その人々がイエスの教えに反対するユダヤ人たちからの迫害の的になった。ユダヤ地方を任され、王となったヘロデは、ユダヤ人の歓心を得るため、キリスト教会を迫害するのが得策と考え、弟子の一人、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」のであった。それが人々の気に入ったのを見て、次にはペテロをと、彼を捕えて牢に入れてしまった。「種なしパンの祝いの時期」、すなわち「過越の祭り」の時であった。(3〜4節)エルサレム中が祭りで賑わう時、自分の力を人々に見せつけようと、周到に考えたのであった。捕えたペテロを逃がしてはならないと、「四人一組の兵士四組に引き渡して監視した」のは、以前、使徒たちが捕えられた時、夜、彼らが牢から助け出されたことがあったからと思われる。(使徒5:17-23)ヘロデは、祭りの後にペテロを、「民の前に引き出」して殺すと、そう決めていた。「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」この世の強大な権力の前に、教会は祈りをもって、神の御業を待ち望んでいた。人の目には、何と無力なこと、祈るしかできないのか・・・と思うような光景である。(5節)
2、教会は、これまでも逮捕や留置を経験していた。その都度、主が御手を差し伸べ、助け出して下さったことを忘れてはいなかった。通常の考えでは、当然のように抗議し、救出のために何をするのか、懸命に考え行動に移そうとするに違いない。ところが、使徒の働きに記されているのは、「神に熱心に祈り続けていた」という、危機に直面して神に向かう教会の姿である。神に祈り、神が手を差し伸べて下さること、神が働いて事を成して下さるのを待つことを、教会は最大の力と信じていた。そして、神は、この祈りを確かに聞いておられた。ペテロが人々の前に引き出される日の前夜、鎖につながれ、二人の兵士の間で寝ていたペテロの前に、突然、御使いが現れ、「光が牢を照らした。」御使いは彼を起こし、牢から彼を連れ出した。ペテロは、御使いの命じるまま、幻を見ているのかと思いつつ従い、通りに出て、御使いが去って、ようやく我に返って、何が起こったのかが分かった。主が「私を救い出してくださったのだ」と。それは全くの不思議、神が成し遂げられた救出の御業である。これ以上、人は何も成し得ないとなった時、神が生きて働かれた。ペテロはそのことが分かって、弟子たちのいる所に急いだ。(6〜12節)
3、エルサレムで弟子たちが集まるのは、マルコの母マリヤの家であった。そこで大ぜいの人が集まって、祈っていた。ところが、ペテロが入口の戸をたたいた時、応対したロダは、ペテロと分かっても、喜びのあまり、戸を開けることもせず、奥に行ってみなに知らせた。祈っていたはずの一同の反応は、ペテロが帰って来たとは、誰一人信じないという不信仰そのものであった。(13〜15節)信じて祈っていても、私たち人間の祈りには限界があることを知らされる。神が祈りを聞いて下さるのは、私たちが祈ったからではなく、不信仰な祈りしかできずとも、神に頼り、神を待ち望む者に、神は必ず応えて下さるということである。私たちの疑問は、先に殉教したヤコブのために、神は何をなさったのか、神はヤコブのためには、教会の祈りを聞いて下さらなかったのか・・・と、祈りが聞かれる時と聞かれない時、その違いは何なのか・・・である。ヤコブは、祈っている間もなく、たちまち殺されたのかもしれない。その疑問については、神ご自身の絶対的な主権に関わることである。私たちは、全てを最善に導かれる方にお任せし、祈り続けることを学ばせられる。
<結び> ペテロは戸をたたき続け、ようやくみなと顔を合わせ、事の次第を告げることができた。助けられたことに浮かれることなく、自分はどうすべきかわきまえていたようである。身を隠すことをしたと思われる。他方、ヘロデたちは大慌てで、番兵たちを処刑して、エルサレムでの失態を逃れるかのようにカイザリヤに下って行った。ローマから託されてユダヤを治める王の任地として、カイザリヤがあったからである。(16〜19節)私たちは、この世の権力者がいかにその力をもって挑んだとしても、天地の主、生ける真の神の御力は絶大であり、窮地の時に、必ず光を照らして下さることを教えられる。この世で、全くの闇が周りを満たす時、「光が牢を照らした」という事実が、私たちの人生においても、必ず訪れることを信じて歩みたい。実は、昨年一年の間に、幾度か、それに似た経験をさせられた。これからも必ずあると信じることができる。これからのことを考えると、今まで経験しなかった困難があるかも知れず、神の助けと守りなしには、前進できないと言い切れる。祈ることを知っていても、不信仰な祈りしかできない私たちである。けれども、不信仰な祈りしかできなくても、神の確かさが私たちの頼りである。その神の守りこそが万全であることを、決して忘れずに歩みたいのである。(詩篇62:5-8、46:1-3)
|
|