主の2016年を迎え、思いを新たにして、今朝から、また「使徒の働き」を読み進みたい。紀元一世紀の初代教会がどのように歩んでいたのか、イエス・キリストの福音が、どのように全世界へと広まって行ったのか、その確かな歩みに触れ、私たちの信仰が整えられるようにと願っている。主イエスをキリスト、私の救い主との告白が明確となること願って読み進んでみたい。昨年の11月、福音がシリヤのアンテオケまで届けられ、そこでギリシャ人にも主イエスのことが宣べ伝えられたこと、その町で、弟子たちは初めて「キリスト者と呼ばれるようになった」と学んだ。イエス・キリストの福音は、エルサレムから迫害を逃れた人々が、ただ逃げ惑うのでなく、行く先々で尊い証しを立て、その働きが実を結ぶことによって、ユダヤ、サマリヤの地方、更に北へ北へと拡がっていた。そして、アンテオケでバルナバとサウロが中心として働いたことが、その後の教会の歩みを確かなものとするのであった。その転機、またきっかけとなるのが、今朝の聖書個所である。
1、その頃、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの出来事があった時から、十年位が経過していたと思われる。中心となる教会がエルサレムとアンテオケにあって、それぞれが役割を果たしていた。エルサレム教会はユダヤ人たちのため、アンテオケ教会はギリシャ人を中心とした異邦人たちのため、それぞれの必要に応え、福音は全ての人々のために届けられていた。キリストを救い主と信じる信仰は、万民のためのものであり、教会は更に拡がりを見せ始めていた頃である。そのような頃に、エルサレムから預言者たちがアンテオケに来て、預言者の一人、アガボが世界中に大ききんが起こると預言していた。彼が預言したことが、クラウデオ帝の治世(紀元41〜54年)に起こった。この時、アンテオケ教会の行動は素早かった。エルサレムを含むパレスチナ全域がききんに見舞われたことを知って、弟子たちは「ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた」のであった。ユダヤ地方が元々貧しく、ききんの影響を受けやすいことを、バルナバもサウロもよく知っていたものと思われる。今何をすべきか、それは「それぞれの力に応じて」「救援の物を送ること」と、速やかな決定がなされたのであった。(27〜29節)
2、決定の背後には、キリストの教会は一つであること、また、エルサレムにいる弟子たちの痛みは自分たちの痛みであることなど、キリストの身体である教会についての理解があった。「救援の物」とは、物品ばかりでなく献金が含まれ、それらは強制されることなく、「それぞれの力に応じて」集められた。「力に応じて」のささげ物こそが尊く、自発的にささげられる物資が、次々と集まったのである。アンテオケの弟子たちは、そのことをやり遂げ、「バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」(30節)エルサレムに届けるのはこの二人で、彼らは二つの教会を結びつける、とても大事な役割を担っていた。教会のかしらである主イエスご自身は、その時その時に、大事な役割を果たす器を備えておられたのである。預言者たちを遣わし、アガボに預言させたことは、これから起こることに、予め心備えをさせておられたことと思われる。その時に慌てたり、うろたえることのないように準備をさせ、いざと言う時には、速やかに手を打たせておられた。バルナバとサウロがアンテオケにいたことも、その地の教会を立て上げるだけでなく、この救援行為のために、彼らを配置させておられたとも考えられる。私たちの歩みにおいても、神の成さる万全のあることを知らされる。そしてそれに気づくことの尊さがある。
3、アンテオケ教会において、弟子たちが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになり、アンテオケ教会が目覚ましく福音の証しのために前進していた時に、エルサレムにある教会の兄弟姉妹のことを思いやる機会が起こったことは、初代のキリスト教会の歩みの中でとても大きな意味があった。キリスト教会にとって、本質的な事柄として、互いに他を思いやる心の大切さ、互いに支え合って教会は歩むものであることを、はっきり教えられていたのである。キリストの福音を先ず宣べ伝えたのは、エルサレム教会に連なる弟子たちであった。新しく救いに導かれた異邦人を中心としたアンテオケ教会は、先に信仰に導かれた弟子たちによって教えられたり、祈られたり、様々な助けを受けながら前進していた。そして、今、ききんにより大いに苦境に陥った時、幾らか余裕のあったアンテオケ教会の弟子たちが、ユダヤの弟子たちを支えたり、助けたり、自分にできることをしようとして立ち上がっていた。この後も、教会が歩む道には、必ず支え合うべきことがあり、助け合うこと、互いに他を思いやることは、不可欠な事柄として勧められている。代々の教会は、この支え合う心を抜きにしては、前進し得なかったと思われる。(コリント第二8:1-15、9:1-15)
<結び> 2011年3月11日の東日本大震災以降、復興支援の働きはキリスト教会の大事な働きとして、いろいろと取り組まれている。必要に迫られている面があり、また地味に継続できるのか、いろいろな課題があると実感させられる。今朝の聖書から、教会の本質的な働きには、救援や支援の活動があることを覚えたい。互いに支え合う心を大事にして、私たちの教会もその働きを、喜んで担い続けることが導かれるように祈りたい。僅かであるが、今までも担って来れたことを感謝し、今まで以上に重荷を担えるよう、主から志をいただきたい。今まで余り関心がなかった・・・という人も、改めて、思いを起こされるなら幸いである。けれども、「支え合う心」について思い巡らすなら、それは災害などの救援だけでないのは明白である。全く日常的な、人と人との支え合いがあり、互いの思いやりなど、目の前にいる人との関わりが大事と気づかされる。先ずは、主イエス・キリストの愛に触れて、その愛をいただいて、私たちが互いに愛し合うことを目指す者でありたい。主イエスに導かれ、「支え合う心」を豊かに持たせていただくことができるように!
(コリント第一1:12-27)
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