私たちが公の礼拝のために集うのは、通常、年に52回の「主の日」であり、それに加えて「元旦」である。週の初めの日に、キリストの復活を記念して礼拝をささげ、また年の始めにも神の前に礼拝をささげ、神の国とその義とを第一に求める信仰を明確にさせられ、心を新たにさせられて歩んでいる。世の多くの人々が、年末から年始にかけて、何かをリセットしようとするかのようにして初詣をするのと、私たちが元旦に礼拝をささげるのは、全く意味が違うことを先ず覚えておきたい。私たちは、常に新しいいのちに生かされていて、神を第一とするからこそ、元旦に、神の前に出て礼拝をささげるのである。そして、「みことば」に耳を傾けたいと願うのである。
1、今朝、導かれたのは箴言16章1〜9節である。「主を恐れることは知識の初めである」との教えを主題のようにして、造り主なる神の前に、神に造られた人間がどのように生きるのか、様々な角度からの教えが全編を貫くのが箴言である。その中で、行き着くのは神への信頼と服従であること、神にあって生かされている自分を知るようにと、ずばり語られている。年の始めにこそ、心に留めるべき教えである。「一年の計は元旦にあり・・・」と、よく聞かされ、「今年の抱負を考えなさい・・・」と、宿題が出されたことを思い出す。確かに、無計画のまま歩み出すのは好ましくない。そして、懸命に考えて踏み出すのであるが、それが順調に進むわけではないことが多い。「みことば」が告げるのは、よくよく考えた上で、その計画を「主にゆだねよ」ということである。心の内でよく考えること、その計画が、自分では最善で最高と思えたとしても、それでも「主にゆだねよ」と言われている。(1〜3節)
2、私たちはしばしば、主に委ね切れずにいるのではないだろうか。委ね切ることをせず、任せ切ることもせず、自分の計画に間違いはないとばかり、前進したくなるものである。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。主はすべて心おごる者を忌みきらわれる・・・」と言われている。何があっても、主を恐れること、主が事を成して下さることを待つこと、それが私たちに求められている。「主は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」主を恐れて歩む者のために、主なる神ご自身が御手を差し伸べ、差し迫った恐れや難題を取り除いて下さる。心配することなく、全てを任せよと、主は言われるのである。この世で十分に報われることがなくても、究極の報いは大きく、それは地上で得たものより、はるかに豊かであると。(4〜9節)
3、今年は一体どのような年になるのか、一人一人、いろいろ考えることがあるに違いない。この社会はどうなっていくのか、また、家族の一人一人、友人のことも気になることである。私たちの教会はどのように歩むのか、数えれば課題は山積みである。人によっては、考えがまとまらず、夜中に目が覚めて眠れなくなることもあるであろう。私自身がそうである。日本の社会の行く先は、年々不透明となり、危うさばかり感じてしまう。クリスマスごとに、特に思うのは、世の中の動きに惑わされることなく、神に立ち返り、神に依り頼むことを選び取ることである。何があっても、主を恐れ、主なる神の前を歩むこと、それこそが大事・・・!と。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」年の始めにまた思うことは、一切を主に委ねて、主なる神の御手の中で安らぐことである。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」
<結び> この年も確実に52週巡ってくる「主の日」を尊び、礼拝において「みことば」に触れることを大切にしたい。聞いた「みことば」を心に蓄え、それを自分に当てはめ、「みことば」に養われることを願いつつ歩みたい。礼拝に集う方が、なお増し加えられ、主の御手の中で安らぐ日々を、しっかりと歩む方が起こされるよう祈りたいものである。一人一人の歩み、そして、教会の歩みが一層祝されるように!!
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