クリスマス礼拝を迎え、今年も救い主のお生まれを喜び祝える幸いを、先ず心から感謝し、主の御名を崇めたい。私たちは、救い主キリストがおられるので、いつ、どこにあっても、神が共におられる幸いの中にあるからである。今朝の聖書個所は、神の御子がユダヤのベツレヘムにて、確かにお生まれになった場面である。ガリラヤの町、ナザレに住んでいたマリヤとヨセフが、皇帝アウグストの勅令によって、はるばるベツレヘムへと向かわせられ、その地でマリヤは月が満ちて、男の子を産むことになったのである。
1、救い主キリスト、メシヤについての預言は、生まれる子は聖なる者、神の子であること、ダビデの王位を継ぐ者であること、更には、出生の地はベツレヘムであることなど、かなり詳細なことに及んでいた。その預言が一つ一つ実現していたが、ベツレヘムでの誕生について、マリヤとヨセフが自分たちで、そのように考えたことではなかった。天地を造られた神は、万物を支配しておられ、歴史の一切をも御手に治めておられた。神の救いのご計画は、この世の事柄の一切を支配し、起こり来る事柄の全てを用いて、確かな実現へと導かれていた。ナザレに住んでいた二人は、ローマ皇帝の命令によって、ダビデの町、ベツレヘムへと上って行った。その旅は、身重のマリヤには過酷なもの、強いられたものとなり、そこに着いて滞在している間に、「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」しかも、幼子が寝かせられたのは「飼葉おけ」、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と記されている。(1〜7節)その光景は、お話としてはワクワクするものであっても、マリヤとヨセフにとっては、戸惑いや心配が交錯する中、約束された男の子の誕生にホッとする、そんな一コマである。二人は、やっと一息ついている様子がうかがえる。
2、ところが、そんな一休みはたちまち、にぎやかな来訪者によって壊されることになる。男の子の誕生の知らせは、野原にいた羊飼いたちに届けられた。彼らは、「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」主の使いが彼らのところに来て、救い主キリストの誕生を告げ知らせたからである。(8〜12節)男の子は「救い主」であり、「この方こそ主キリスト」と告げた。御使いは、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と、この喜びの知らせは、「あなたがた」に届けられていると告げ、「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」と言って、この喜びは「あなたがたのものです」とばかり、念には念を押していた。他の誰かにではなく、天の神は、羊を飼っている「あなたがた」に、この喜びを知らせておられると。そして天の軍勢が現れ、賛美の歌声が響き渡った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(13〜14節)羊飼いたちは、御使いの知らせを確かに受け止め、早速ベツレヘムに向かい、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」(15〜16節)彼らは、御使いの知らせの通りであることを喜び、神をあがめ、賛美せずにはいられなかった。(17〜20節)
3、救い主の誕生という喜びの知らせが、野原にいた羊飼いたちに知らされたのには、いったいどのような意味があったのだろうか。そのことについて、いろいろと考えられる。羊飼いという職業は、当時の社会では最下層とされていた。羊飼いたちはさげすまれ、社会では疎外されていた。神は、そのような人にこそ、喜びの知らせを届けられた。そして、彼らは自分たちに届けられた知らせを喜び、これを受け取り、「みどりご」を捜し当てた。彼らもまた、母となったマリヤと同じように、神が自分たちを心に留めて下さったことを喜ぶ人々であった。神の前での自分がどのようであるか、それこそが大事と心得る者たちであった。(15節)この出来事を心に留める私たちは、果たしてどうか。神が知らせようとされた「喜びの知らせ」、すなわち「救い主の誕生」という大きな喜びを、しっかり聞いているだろうか。そして、その喜びを受け止めているであろうか。実際のところ、私たち人間は、なかなか自分が最下層の存在であるとは思わない。いや、決してそんなことは考えないものであろう。自分より下に誰かが存在すると思い、それで自分を肯定したりする。神によって助けられるなど、恥ずかしいこととし、そんな必要を感じないでいる。クリスマスを、全くキリスト抜きで迎えて平気なのである。
<結び> けれども、やはり一番大事なこと、それは生ける神の前に出たなら、果たして、自分はどのような存在なのか、そのことを知る者であることと心したい。自分には助けが必要なのか、すなわち、神なしで人生の全てをやり抜くことができるのか、心の底の底までを、神がご覧になったら、それでも神の前に顔を上げられる自分なのか等々、本気で自分を見つめることが、やはり大事なのである。私たち人間は、どんなに自分で頑張ったとしても、不完全であり、他の人の前に益となることができると言うより、かえって害となることを、知らずして積み重ねる、そんな存在である。聖書には、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」と、明確な教えが語られている。それに従うはずの私たちが、この教えに反していることしばしばである。私たちは、一体どうすればよいのか。
「イエス」と名づけられた幼子こそ、私たちの救い主キリストである。「イエス」とは「主は救い給う」との意味であり、私たちを罪から完全に救い出して下さるお方、それが主イエス・キリストである。(21節)この方を心から信じる信仰へと進ませていただくところにこそ、私たちの本当の平安や希望があることを心から感謝したい。(※マタイ1:21)
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