救い主キリストの誕生を祝うクリスマスを迎えると、その最初の出来事をいろいろ思い巡らしながら、この季節を過ごすことになる。それぞれ一番心に留まる場面があるに違いない。今朝の聖書個所は、イエスの母となるマリヤの前に御使いが現れ、彼女に「受胎告知」した場面である。毎年毎年、読み返しているので、ほとんど覚えている人がおられる・・・、そんな一コマ。有名な絵画がいくつもあって、心に強く残る場面の一つである。
1、御使いガブリエルは、マリヤに遣わされる六か月前、祭司ザカリヤに遣わされ、妻エリサベツが身ごもって、男の子を産むことを告げていた。既に年老いていた二人には、もう望み得ないと思われていたこと、子どもが与えられる大きな喜びが約束された。神のご計画は、エリサベツの次はマリヤと、順序を踏んでいた。御使いは、ガリラヤのナザレに住む処女マリヤのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と、神がマリヤとともにおられることの幸いを告げた。マリヤが神を信じ、神を恐れ敬っていることを、神が知っておられる、分かっておられる。そのあなたは何と幸いなことでしょう!と。いきなりの言葉にマリヤは戸惑うしかなかった。何事が起ったのか考え込むばかりである。(26〜29節)そこに、御使いの言葉が続いた。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。・・・」(30〜33節)ヨセフのいいなずけであっても、二人はまだ一緒になる前だったので、御使いの言葉に、一層、マリヤは驚き、動揺するばかりであった。
2、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(34節)彼女の動揺は、至極当然であった。けれども、御使いは更に告げた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(35〜37節)「これから起こることは全て、神がなさること。神が全能の御力によって、神の子を世に送られる。神の御業は、あのエリサベツの身に、確かに実現している」と、御使いは告げていた。マリヤはこの言葉をどのように聞いたのであろうか。そうは言っても・・・と、ためらいを見せたのだろうか。少し考えさせてほしいと思っただろうか。きっとそうに違いない・・・と、私たちは考えるかもしれない。しかし、彼女は、それほどためらいを見せることなく答えている。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)彼女は、自分が何者であるかを知っていた。また、神のことばに身を任すことを、自ら進んですることを選び取った。
3、「私は主のはしためです。」この言葉には、自分が何者で、どのような存在であるかの、はっきりとした自覚が込められている。後にエリサベツに挨拶に行った時、マリヤは、主を賛美して歌った。「・・・主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。・・・」(46〜48節・・・・)人々の目にも留まらない自分であることを、彼女は知っていた。そのような私に、神が目を留めて下さったことが嬉しいと歌っている。その嬉しさから、神が決めておられるようにお任せしますと、自分を明け渡していた。「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」彼女は、「神にとって不可能なことは一つもありません」と言われて、その言葉を信じた。そして、「あなたのおことばどおりに・・・」と、神のみこころ、神が考えておられることに、私は従いますと、そのように身を任せたのである。救い主の誕生に際して、そのような一幕があったこと、マリヤの、そんなにも従順で、純真な神への服従があったことを、私たちはしっかりと心に刻みたい。習うべき、神への従順の手本、それがマリヤの姿である。この信仰を思い返しながら、救い主のお生まれを喜ぶこと、これがクリスマスの喜びの一つである。そんな信仰の決断が、私たち一人一人にも導かれることを祈りたい。
<結び> 自分を知ること、特に神の前での自分がどんな存在であるかを知ること、また認めることは、人間としての一番大事なことである。私たち人間は、最初の人アダムにおいて神に背いたことにより、自分を見失っている。見失ったことに気づいて、慎ましくしいるのか・・・と言えば、決してそうでなく、かえって驕り高ぶり、神なしで十分・・・とばかり、自分を誇っている。自分の卑しさを認めることはなく、むしろ高貴で有能、何でもできると自分を誇る者が、この世に溢れている。その結果、人と人との関係は深まるどころか、冷え切って薄れるばかり、荒むばかりである。
こんな時代だからこそ、私たちはクリスマスの出来事を、しっかりと心に留め、生ける神が、私たちに救い主を遣わして下さったことを感謝したい。マリヤは「私は主のはしためです」と言った。男の人なら「私は主の僕です」と、心から言うことである。主人である神に従うことが、私の喜びですと、心から言えるのかどうか、そのようなことが問われる。私は、クリスマスの出来事が、いと高き所にいます神が、いと低くなって地に降りて来られたことと思うよう心掛けている。神が、こんな所にいる私に目を留めて下さった出来事、それが救い主イエス・キリストのお生まれであると。だから、マリヤの言葉を自分の言葉として発せるように、また、その言葉の通りに自分も生きられるように、心を低くして、神の前に従順であるように、神の全知にして全能の御業にこそ依り頼むものでありたいと、心から祈るしかない。神には不可能なことはないと信じ、心を低くし、神に従って、この週も歩ませていただきたい。
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