礼拝説教要旨(2015.12.06)   
やみを照らす光
(イザヤ 9:1〜7)

 天と地の造り主である神、その神の前に背いた人間を愛し、罪の中から救い出そうとされた神の救いのご計画は、永遠からのご計画として、決して変わらない確かなものである。神のご計画は歴史の中で少しずつ明らかにされ、また預言者たちを通して語られていた。ノアの生涯やアブラハムの生涯、更には、モーセに率いられた民の歩みやダビデ王の経験など、旧約聖書にそれらは記されている。神の民イスラエルの歴史において、王国が分裂し、地上の王国が滅びに向かう時、神は預言者を通して、人にではなく、神を待ち望むように、真の救い主こそ待ち望むべきお方と、より明らかにして人々に語りかけておられた。救い主キリストがお生まれになる、七百年ほど前のことであった。

1、キリスト(メシヤ)の到来の預言は、イザヤ書やミカ書に特に見出される。その時代背景は混乱と恐怖であり、先行きの不安が当時の社会を覆い尽くしていた。国と国が争い、民族と民族が入り乱れ、富の不平等も半端ではない、そんな時代である。イスラエルの民は、神の民として守られていたはずであった。それなのに、富に惑わされ、この世の力に頼る誘惑にさらされ、右往左往していた。そんな時代に、神はイザヤを遣わし、今こそ神を仰ぐこと、神に頼ることを教え、メシヤを遣わすことを約束しておられた。7章に続いて、9章でもその約束が語られている。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。・・・」と。(6節)その約束の実現は、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と言われるように、人々に希望や勇気を与えるものであった。それは、苦しみのあった所に光が差し、やみがなくなる約束であり、はずかしめられていた地に、光栄がもたらされる、そんな幸いが来ると告げられている。神を信じ、神に頼ろうとする人々は、これらの約束を信じるなら、神を待ち望む信仰へと向かうことができるのである。(1〜5節)

2、当時の危機的状況は、7章1節以下に記されている。ユダの王アハズは、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンに攻められ、一端は食い止めたものの、その恐怖が去っていないことに気づいて恐れていた。神は預言者イザヤを遣わし、大丈夫!神がついておられる! だから神に頼れ!と言われた。ところがアハズは、神よりも人の助けを当てにして、アッシリヤの王に頼ろうとしていた。けれども、それは何の助けにも、また解決にもならず、事態は益々悪くなっていた。神に頼ることをしない民は、霊媒などいかがわしい宗教に走り、社会は荒れすさんでいた。「・・・地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」(8:19-22)そのような苦境は、ここ数年、益々、今の時代に重なる。世界中がテロの恐怖に包まれている。日本は、北朝鮮の核に怯え、同時に中国の脅威が増大していると、国の守りを固めることにやっきとなっている。真の神に頼ることなど眼中になく、他国に頼り、必死に力を蓄えようとしている。私たちは、本当の助けは、天地を造られた神にあること、神が遣わして下さる救い主にあること、救い主キリストこそ、やみを照らす真の光であることを、今一度はっきりと心に留めたい。この時代に必要なのは、やみを照らす光、真の光なるイエス・キリストである。目に見える力や物による安心ではなくて、心が満たされるたましいの平安であることを。

3、やみを照らす大きな光、死の陰に住む人々、暗やみで苦悩する人々の上に照る、真の光としてお生まれになった方、それがイエス・キリストである。キリストは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」としてお生まれになった。この方に依り頼む者は、この世で、やみの支配に取り囲まれても、決して窮することはない。私たちの救いの確かさは、私たち自身の信仰の有無や強弱、また熱心さや怠慢さによって左右されることはない。神ご自身が確かな救いのご計画を立てておられ、そのご計画を、ご自身の良しとされる時にかなって、確実に実現されるからである。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえられる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(7節)天と地を造られた神、唯一の生ける真の神が、全てを支配しておられる。その神が、私たちに救い主を送って下さったのである。神の永遠のご計画があって、時が満ち、母マリヤから、幼子のイエスがお生まれになった。ベツレヘムでお生まれになった幼子は、やみを照らす光、真の光なる救い主キリストである。

<結び> 私たちは、毎年12月、この喜びの時を迎えることができる。幼子イエスは、罪人に救いをもたらすためにお生まれになった。私たちの喜びは、このことのゆえである。救い主の誕生を、大喜びするのである。けれども、その喜びが上滑りしている現実があることに、心が痛むことがある。教会で祝うクリスマスはどうか・・・? 私たちは、教会でこそ本当のクリスマスを、毎年毎年、丁寧に覚え、これを証しできるようにと心したい。

 日本の社会を見回すと、何でもかんでも、商売に結び付けることができるなら・・・と、恐ろしいばかりのたくましさが溢れている。その先鞭がクリスマスだったのか・・・? この頃は、イースターも商業ベースに乗ったかのよう・・・。また、私たち教会では、毎年10月31日を「宗教改革記念日」として覚えているが、一般では「ハ・・・・・」と、得体の知れないことになっている。教会は、何を大事にするのか、大いに心したい。私たちがクリスマスを祝いながら、巷のクリスマスとさほどの違いがないなら、それは大問題である。13日(日)に子どもクリスマス会、そして、20日(日)にクリスマス礼拝を迎える。24日(木)には、キャンドルサービスを予定している。クリスマスには教会に行ってみよう・・・という方もおられるこの季節、多くの方が、教会に、また聖書に心を向けて下さるように祈りたい。ぜひ家族や友人に、救い主のお生まれの喜びを届けることができるように、また教会の証しが用いられるように・・・と。