カイザリヤの町で、コルネリオの一家や親族、そして親しい友人たちがこぞって主イエスを信じて、聖霊の賜物を注がれるという出来事が起こった。その出来事は、ペテロや彼といっしょにユダヤから来ていた弟子たちには、大きな驚きであった。ユダヤ人以外の異邦人たちも、イエスをキリストと信じる信仰に導かれ、神に立ち返るのは、考えてもいなかったことだからである。けれども、永遠からの神の救いのご計画は、ユダヤ人から始めて、やがて全世界の人々を救いに導くことであった。主なる神ご自身は、人をかたよりみることは、決してなさらない。どこの国の人でも、必ず救いに導き入れるため、御子イエスを遣わし、十字架の死と死からのよみがえりによって、御子を信じる者に罪の赦しを与え、救いに入れて下さるのである。
1、主イエスを神の御子、真の救い主と信じた異邦人たちが聖霊を受け、水によるバプテスマ(洗礼)を受けたという喜びの知らせは、早速、エルサレムの教会に届いた。ところが、エルサレムにいた使徒たちや弟子たちの反応は、今一つしっくりしなかった。彼ら、ユダヤ人たちは、異邦人も聖霊を受けたことや、彼らも洗礼を受けたことより、ペテロが異邦人たちといっしょに食事をしたことを非難し、その行動を問い質すのであった。「割礼を受けている者が、割礼を受けていない人々と交わるなんて、有り得ないこと!」と、声を荒げていた。ユダヤ人として、ユダヤ教のしきたりの中で歩んで来た人々は、イエスをキリストと信じて歩み始めていても、律法が命じることをしっかり守ることに拘ることが残っていた。熱心であればあるほど、ユダヤ人としての誇りを大事にしようとして、異邦人と交わることは、とても考えられなかった。けれども、そのような拘りこそ、主イエスの十字架が打ち破り、退けることであった。罪の赦しによる救いは、全世界の人々へと宣べ伝えられるものなのである。その大事な一歩がコルネリオの一家の救いであり、この出来事を巡って、エルサレムの教会は丁寧な対応を迫られていた。(1〜4節)
2、ペテロは、自分が見た幻について語り、カイザリヤから三人の遣いが来たこと、その意味することを理解して、ためらわずにコルネリオの家に行ったことを説明した。そして、死からよみがえったイエスこそ、信ずべき救い主と語っていると、聖霊が人々の上に下ったことを告げた。(5〜15節)ペテロは、それはペンテコステの日に起こったことと同じで、自分たちの上に起こったことと、全く同じと確信させられたと証言した。すなわち、主イエスが約束されたことが自分たちに起こり、また異邦人たちにも起こったので、神がなさることを心から信じて受け入れた、と語った。(16節)その全ての出来事は、ペテロも、また一緒に行動していた人々も、あれよあれよと驚くことばかりであった。驚きを通り越して、神のなさることに、必死で従っていた側面があったと思われる。人間的な思いでは推し量れず、ただ従うしかなかった。けれども、従って着いて行く時、神がなさる大いなる御業が、そこに現されていた。ペテロは、神がなさる力ある業を妨げることなどできず、かえってそれを喜ぶこと、感謝して神を賛美することが、尊いと知らされたのである。(17節)
3、ペテロの説明を聞いていた人々は、「・・・どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう」との言葉に、沈黙するしかなかった。すなわち、神ご自身が、異邦人をも救いに導いておられることが分かったからである。「『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」(18節)生ける真の神の前に一番大切なことは、神に立ち返ることであると、また、いのちに至る悔い改めこそが、神が喜ばれることであると、みながよく理解した。この理解については、この後も、繰り返し確認されることであった。ユダヤ人として歩んで来た弟子たちにとって、ユダヤ教の背景が残る聖書理解があり、キリストに従う教会としては、ユダヤ教の影響から、一刻も早く離れることが大事で、異邦人伝道が進む時に、一番大きな課題となるのであった。だからこそ神は、人々が誤解することのないように、また勝手な解釈をしないように、手を差し伸べておられた。「いのちに至る悔い改め」をすること、どこの国の人であっても、神を信じて、正義を追い求めること、罪を心の底から悔いること、そしてイエスを救い主と信じて、真のいのちを得ることが肝心なのである・・・と。
<結び> それにしても、私たちは一体何が大事なことなのか、全く分からなくなった、そんな時代に生きているようである。神なしの時代に、何を大事にすべきなのか、ほとんど分らなくなっている。いのちこそ大事にしなさい・・・と、学校で教えようとしても、いのちがなぜ大事なのか、その根拠を説くことができないのが、この日本の社会の現実である。天と地の造り主である神を恐れず、人間が中心である限り、価値観は揺れ動くしかない。(政治家や時の独裁者が、勝手に価値観を振りかざし、神のように振る舞うのは、どこの国でも、止むを得ないことなのかもしれない。)真の神を恐れ、その神の前に、いのちに至る悔い改めをすること、これこそ、イエス・キリストの福音が福音たる、一番大事な中身と言える。真心から、罪を悔い改め、神の前にひれ伏すことが、何よりも尊いことである。(伝道者の書12:13-14)
そして、悔い改めたなら、その悔い改めの実を結ぶことが期待されている。私たち一人一人は、福音が全世界に宣べ伝えられ、時至って、その喜びの知らせを聞くことができた。私たちは、誰をも分け隔てすることのない神によって、イエス・キリストを信じるよう導かれ、神に立ち返る幸いを得たのである。神に立ち返った者として、救いの恵みを喜び、感謝して、この福音を証しする者とならせていただくこと、それが私たちの果たすべき務めである。神を信じ、神にあって生かされる日々を喜ぶこと、神の前に、いよいよ心を低くして歩むことを導かれたい。そのような意味での、私たちの歩み、また証しは、今の時代に、ますます尊いものであるに違いないからである。
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