福音宣教の業は、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てにまで及ぶものであった。ユダヤ人の世界から、やがて異邦人の世界へと広がっていく過程において、迫害があり、その道筋は決して平たんではなかった。主イエスが用いようとされた一人がサウロ(パウロ)であり、使徒たちの中心にいたペテロである。10章1節以下、ペテロがどのようにして異邦人と関わるようになったのか、詳細に記されている。神ご自身が背後にあって、確かに御手を差し伸べておられた。それは見事というものである。神は、ご自身の手を伸べ、ご自身の民を救いへと確実に導いておられる。その確かさは、いつの時代、どこの国にあっても同様なのである。
1、ルダの町からヨッパの町に行ったペテロは、そこでしばらく、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。ヨッパの町にいる主の弟子たちのために、ペテロが果たすべきことは多かったに違いない。新しく信仰に導かれた人々のため、また、もっと深く聖書を知りたいという人々のため、彼は多くの時間を割いたことであろう。そうしている時、ヨッパから北に約60qの町、カイザリヤに住むコルネリオという人に御使いが現れ、今、ヨッパにいるペテロを招くようにと命じていた。コルネリオは、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であったが、ユダヤ教に関心があり、聖書に親しむ敬虔な人で、全家族とともに神を恐れて歩んでいた。彼がいつものように祈っていた時、幻の中で御使いから命じられたので、早速、命じられた通りにしもべたち二人と、護衛となる敬虔な兵士を一人つけて遣わした。この人たちがヨッパに近づいた頃、ヨッパにいたペテロは、丁度、昼の祈りのために屋上に上っていた。彼は、食事前で空腹を覚え、また眠気にも襲われて夢ごこちになっていた。(1〜10節)
2、夢ごこちになったペテロに、神は幻を見させられた。天が開けて、大きな敷布のような入れ物が降りて来て、そこには、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、空の鳥など、ユダヤ人が決して食べない「きよくない物や汚れた物」が入っていた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」との声が聞こえた。彼は「それはできません」と答えたが、それに対して、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」との声があった。そのようなことが、三回あって、その入れ物は天に引き上げられた。ペテロが思い惑っていたその時、コルネリオのしもべたちが到着し、シモンの家の門口に立ち、声をかけていた。ペテロには、神ご自身が語りかけておられた。「・・・ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」(11〜20節)ペテロは三人の遣いの言うことを聞いて、彼らの旅の疲れをねぎらうように招き入れ、翌日、カイザリヤに向かった。その翌日、コルネリオの家に着くと、多くの人と一緒に出迎えたコルネリオは、ペテロの足もとにひれ伏して拝むまでして、到着を喜んだ。「ペテロは彼を起こして、『お立ちなさい。私もひとりの人間です』と言った。」真に礼拝べきは、人間ではなく、生ける神だけであると伝えようとしたのである。(21〜26節)
3、ペテロに、神は幻によって、どんな人も分け隔てしてはならないと告げておられた。それで彼は、ためらわずにコルネリオの家に来れた。他方、コルネリオがどうしてペテロを呼ぶことになったのか、その理由を彼は知りたかった。コルネリオの話を聞いたペテロは、事の全貌が明らかになった。「神はかたよったことをなさらず、どこの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。・・・このイエス・キリストはすべての人の主です。・・・。」(27〜43節)死からよみがえったイエスこそ、罪の赦しを与えて下さる救い主と、ペテロは熱く語り始めた。彼が語っていると、聞いていたすべての人に、聖霊が下った。ペンテコステの日と同じように、聖霊が一人一人に注がれるのが、人々の目にはっきりと分かった。そこにいた人々、特にユダヤからペテロと一緒に来ていた人たちは、異邦人にも聖霊が注がれたこと、また異言を話したり、神を賛美するの聞いて驚いていた。神ご自身が、一切を支配し、また、全てを整えておられた。ペテロは神の確かな御業に驚きながら、その日、イエスをキリスト、救い主と信じた人々に、水によるバプテスマ、洗礼を授けることをためらわなかった。異邦人もイエスをキリストと信じ、キリストの弟子として歩み始めていたからである。(44〜48節)
<結び> コルネリオの一家とその親しい友人たちが、こぞって信仰に導かれ、聖霊を注がれ、洗礼の恵みに与ったことは、教会の初期の歩みにおいて特筆される出来事であった。しかも、この出来事が実際に起こるのに、神が、用意周到、万全な導きを与えておられたことは、驚くほどである。コルネリオにも、またペテロにも、予め心備えができるように働いておられた。けれども、この時だけ、そのように神は働いておられたのだろうか。特筆された、特別な事例なのだろうか。必ずしもそうではないことを覚えたい。
実際に神が働かれるのは、いつでも、どんな時でも、常に万全をなして下さっていることに、私たちは気づくべきであろう。すなわち、私たちが気づこうと、気づかなかろうと、そんなことには関係なく、神は常に、全てにおいて、万全をなして下さるのである。肝心な時、ここぞという時、或いは、私たち人間が、このことは知っておくべき時に、その事実をより明らかにして下さるというべきなのであろう。それゆえに、私たちは、自分自身の歩みにおいて、常に目を覚まし、注意深く、主の導きを探り、主が注いで下さる恵みを数えることが大事となる。(ローマ8:28、31、詩篇118:5-9)神は、常に万全をなして下さると知れば、私たちは、常に、神にあって幸いを得、どんなことにも立ち向かう勇気や、知恵をいただくことができる。私たちの日々の歩みにおいて、神が常に、万全をなして下さると信じて歩むこと、その信仰による歩みが、どれだけ私たちを支えてくるものなのか、今週の歩みが支えられるよう、また豊かな助けが与えられるよう祈り求めたい。
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