礼拝説教要旨(2015.11.08)   
主に立ち返る人々
(使徒の働き 9:32〜43)
 
 使徒の働きは、サウロの劇的な回心を、そして、その後の異邦人伝道の兆しを記した後、教会が聖霊に励まされて前進し続けていたと告げている。教会を導いておられるのは、生きて働かれる三位一体の神であるが、よみがえった主イエスが天に昇られた後、ペンテコステの日に弟子たちに降った聖霊が弟子たちと共にいて、確かな働きをしておられた。聖霊なる神の働きは、使徒たちの代表的立場にあったペテロを通しても、目覚ましい形で表れていた。彼は、エルサレムから散らされた人々が、行く先々で福音を証ししたことによってできた教会を、あちらこちら巡回していた。あの町にも、この町にも、また、小さな村々にも弟子たちの群れがあるところに、次々と訪問して、人々を励ましていたのである。(32〜35節)

1、その巡回先のルダの町で、八年間も床に着いていたアイネヤという人が、ペテロの語る言葉に従うことによって、中風を癒され、癒されたアイネヤを見て、多くの人々が主に立ち返ることになった。神が生きて働かれることを、人々は見せられ、強烈なインパクトを受け、近隣の町にいる人々まで、立ち上がって歩くアイネヤを見て、イエスをキリストと信じた。ペテロは、自分が何か不思議なことをするのではなく、注意深く「イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです」と語り、その上で「立ち上りなさい。そして自分で床を整えなさい」と、主イエスを信じ、主に依り頼んで立ち上がることを命じた。不思議を行うのは主イエス、神ご自身であると、人々がはっきり悟ることが肝心であった。「すると彼はただちに立ち上がった。」(34節)イエスを信じる信仰を、イエスご自身が良しとし、イエスが彼を立ち上がらせておられた。そのアイネヤを見て、人々はみな、「主に立ち返った。」イエスは生きて働いておられると、多くの人々が信じた。イエスに代わって遣わされた聖霊が、人々の心に、イエスを神と信じる信仰を起こしていたのである。

2、続いてペテロは、地中海沿岸のヨッパという町に行った。その町にいたタビタという女の弟子が亡くなり、ルダにいたペテロは、「すぐに来てください」と頼まれたからである。彼女は、ヨッパの弟子たちの間で良く働き、多くの良いわざと施しをしていたので、人々から愛され、惜しまれていた。その彼女が病気になって死んだ時、人々は全く無力で、ただ葬りの備えをするだけであった。けれども、ペテロが到着して、人々を外に出し、祈って、その遺体に向かって、「タビタ。起きなさい」と言うと、彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。死人がよみがえる奇跡が起こった。教会の歩みの初期において、ここぞという時、聖霊なる神は、人の思いを超えた不思議を行われた。ペテロはタビタの手を取って立たせ、その町にいる弟子たちの前に、彼女は生きていると、はっきりと見せた。人々の驚きはいかばかりであったことか。このことは、ヨッパ中に知れ渡ることになり、多くの人々が主を信じた。この町でも、「主に立ち返る人々」が着実に増し加えられた。(36〜42節)

3、この二つの町での出来事、アイネヤとタビタに起こった不思議は、主イエスが生きて働かれることの証拠であった。いずれも、イエスこそ神、信ずべき救い主キリストであることの「しるし」そのものである。実際に、ペンテコステの日以降の教会において、目覚ましい「奇跡」が起こり、その奇跡を通して、人々は心を動かされ、イエスを信じることが導かれていた。けれども、奇跡を見た人が全て、例外なくイエスを信じるかどうかは、また別のことであった。見ても信じない人々は多く、聞いても心を動かすのかどうか、人の心は頑なであった。すなわち、多くの人が「主に立ち返った」のは事実としても、もっと多くの人々が、なおもイエスのよみがえりを否定し、イエスをキリストとは信じないで、その教えを宣べ伝えるのはまかりならぬ・・・と、怒りを燃やしていた。主イエスを信じる弟子たちは、ユダヤ人たちからの迫害によって、エルサレムから散らされ、異邦人の多くいる地方へと逃れながら、聖霊の励ましをいただいて、福音を証ししていた。ペテロはしばらくの間、ヨッパに留まり、「皮なめしのシモン」の家に泊まっていた。その職業は、ユダヤ人なら決して就かないもので、「シモン」という同じ名前の人の家に泊まり、サウロに続いてペテロも、「異邦人伝道」への一歩を踏み出すところであった。(43節)

<結び> ルダはエルサレムから西北西に約40q、ヨッパはその先約18q、それぞれ交通の要所である。少し前、ピリポが海岸沿いの町、アゾトからカイザリヤに北上した時、ヨッパにも立ち寄り、福音を伝えたものと考えられる。それらの町には異邦人が多く住んでいて、迫害を逃れた弟子たちは、比較的穏やかに過ごすことができるなど、福音を宣べ伝えるには好都合だった。アイネヤもタビタもヘレニストの社会にあって、主イエスを信じる信仰に導かれていた。彼らはみな、天地を造られた神を信じるだけでなく、その神が御子を遣わして下さり、御子が十字架で死なれたこと、よみがえられたことを信じて、イエスこそキリストと信じる信仰に立っていた。そして、ペテロを通して、主の御業が行われた時、更に「主に立ち返る人々」が起こされた。人々は、ぼんやりと神を信じるのでなく、主イエスを信じて、神に立ち返る経験をした。それまでは、神を信じていても、その信じる中身のあいまいさは、否定できないものであったのが、今は真の神を、イエス・キリストを通してはっきりと信じるようになった。人々は、主に立ち返ったのである。

 私たちも、ただ「神を信じている」ということで安心せず、よみがえられたイエスをキリストと信じることにおいて生ける真の神を信じること、この信仰こそ、大切にしなければならない。日本の社会に住む限り、「神概念」があいまいになることに、大いに注意が必要である。「神さま、神さま」と口にしつつ、十人いれば、全く違う「神」を呼んでいることが、至極当たり前である。いたずらに神を呼ぶのではなく、よみがえった方、主イエスをキリスト、救い主と信じることにおいて、はっきり「主に立ち返る」信仰に導かれることを祈り求めたい。生きておられる真の神にこそ、私たちは立ち返るのである。この世は、全く偽りの神々で満ちている。神ならぬ神に人々は惑わされ、右往左往させられている。主イエスのところに人々が立ち返ることができるよう、私たちの証しが用いられるようにも祈りたい。今週も一人一人が、世にあって支えれるように、また用いられるように!!(マタイ11:28-30、ヨハネ14:6)