礼拝説教要旨(2015.11.01)   
とりなす人
(使徒の働き 9:26〜31)

 劇的な回心をしたサウロの人生は、文字通り「波乱万丈」なものとなった。彼の人生をしっかりと支え、導いていたのは、死からよみがえり、生きて働いている主イエス・キリストであった。主に導かれて歩んだサウロは、ダマスコから逃れた後、エルサレムの町に行った。回心後、およそ三年が経過していたと思われる。ダマスコで過ごした期間がそれ位であったことと、エルサレムに戻るには、それ位の時間を経る必要があったと考えられる。迫害の意に燃えていた人物が心変わりして、イエスは神の子であると宣べ伝えていたわけで、ユダヤ人の憤りを思うと、いつエルサレムに行くのか、思案に思案を重ねる必要があったであろう。実際にエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうとしたが、それは、なかなか難しいことであった。(26節、ガラテヤ1:18)

1、エルサレムにいた主の弟子たちにとって、サウロと言えば、教会を迫害していた、あの荒れ狂った人物と、誰もが覚えていた。彼を弟子の一人と信じることはできず、その名を聞いただけで、恐れが全身を駆け巡る、そんな思いの弟子たちが多くいたに違いない。サウロが仲間に加わろうとするのは、何かのワナ、ユダヤ教の人々の策略ではないか・・・と、戦々恐々とならざるを得なかった。サウロが生まれ変わり、キリストの弟子として歩み始めていることを心から喜び、歓迎する人は少なかった。そして彼は、エルサレムで孤立してしまった。いや、孤立せざるを得なかった。そのサウロの困難な状況において、主が備えておられたのは、バルナバの存在であった。彼は、迫害の中でエルサレムに留まり、「慰めの子」と呼ばれるにふさわしい働きをしていた。彼はサウロを引き受け、使徒たちのところに連れて行くという、仲介の役割を果たした。両者の間をとりなす、とても大事な働きである。彼の存在なしに、サウロがペテロたちに会うのは難しく、主の弟子の交わりに加わることはできなかった。「・・・バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところに連れて行き・・・」(27節)

2、バルナバは、以前からサウロを知っていたようである。彼がダマスコ途上で、主イエスを見たこと、そしてダマスコで主が彼に語られたことや、ダマスコで、主イエスの御名を大胆に宣べ伝えたことなどを、弟子たちの皆に語って、サウロの回心が真実であることを証言した。彼は、自分がサウロの保証人となる・・・とばかりに、人々の前に彼のためにとりなしをした。この時、先ず会えたのは、ペテロと主の兄弟ヤコブの二人だけであった。他の使徒たちに会うことはなかったようである。サウロが主イエスを信じたことを、多くの弟子たちは認められず、エルサレムでのサウロは、やはり孤立していた。この先、どのように導かれるのか、主の導きを待つことも必要であった。けれども、バルナバの仲介、そしてとりなしは実を結んだ。「それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。」(28節)エルサレムで、サウロは「ギリシャ語を使うユダヤ人」たちと語り合い、論じ合った。やがての異邦人伝道を見据えて、主のご計画は着々と進められた。しかし、サウロに対する殺害の計画は、ここでも練られ、彼は、エルサレムを密かに逃れなければならなかった。先ずはカイザリヤに逃れ、生まれ故郷のタルソへと行くことになった。(29〜30節)その間、彼を支えたのはバルナバである。彼はサウロの動向をつかみ、来るべき時を待つことにしたようである。

3、使徒の働きは、サウロの伝道の生涯の波乱に満ちた始まりを記し、同時に、教会が着々と前進している様子を記している。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進を続けたので、信者の数がふえて行った。」(31節)ステパノの殉教という、悲しく、痛ましい迫害をきっかけに、キリストの教会は、かえって福音宣教の拡がりを経験していた。しかも、迫害の中心にいたサウロを、主は捉え、ご自身の弟子として彼を用いて、異邦人の世界に遣わそうとされた。神ご自身の御手が、直接、人々の目に留まることはなかったが、確かに教会は、神に導かれていた。教会は、世の嵐にもてあそばれ、世の荒波をもろに受けながら、それでも前進し続けたのである。「信者の数が」は補足とされているが、教会の前進と成長は、数字により明瞭に表れるという意味であろう。やや読み込みと思われるが、主イエスをキリストと信じる教会は、たとえ迫害があろうとも、確かに進展していたのである。

<結び> 今朝のこの個所で、私たちが学ぶべきこと、それは、サウロの伝道の生涯において、バルナバという人物がいたこと、彼がサウロのためにしたのは、エルサレムの教会における「とりなし」という業であったこと、その事実を心に刻むことである。サウロにとって、もしバルナバがいなかったなら、エルサレムで、弟子たちへの仲間入りは、果たしてできたのか。できなかったかもしれない・・・という位、困難なことであった。そのことを踏まえて、私たちは、自分がどのように生きるのか、いつどのようなことのために、主によって用いていただけるのか、よくよく考えることが大事である。一人一人、主から与えられた賜物があって、必ず適正があるとしても、バルナバのように「とりなす人」が、いつでも、どのような場面でも、必要とされるのが、私たちの地上の生活である。他の誰かを待つのか、それとも、自分がそのような者となるのか。バルナバは「慰めの子」と呼ばれた。聖書がそのことを記すのは、イエス・キリストを信じる者は、だれでも、バルナバのようになれること、彼のように、主が用いようとしておられることを、教えようとしているからと言える。一人の「とりなす人」がいて、福音宣教の業は大きく前進することになるのである。

 もう一点、バルナバのとりなしを覚える時、私たちは、主イエスの大いなるとりなしによって、いつも父なる神の前に進み出るのを許されていることを、思い出すことができる。主イエスのとりなしは完全で、私たちの心がどんなに騒いだとしても、罪の赦しは決して揺るがず、神の前に心安んじていられる。主イエスを救い主キリストと信じる私たちのために、父なる神の前でとりなして下さる方、それが主イエス・キリストである。主がおられることは、私たちにとって、最高の喜びであり、最高の幸せなのである。(ローマ8:31-39)