礼拝説教要旨(2015.10.25)   
波乱万丈!
(使徒の働き 9:19b〜25)

 主の弟子たちを迫害するため、ダマスコの町に向かっていたサウロであったが、その途上、主イエスが彼に現れ、彼の人生を180度転換させることになった。サウロほど、劇的な回心をした人はいない。そのサウロは、その日を境に、全く違う歩みを始めることになった。「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(19b〜20節) 彼の人生は、イエスを迫害することに熱心であったことから、イエスは神の子であると宣べ伝えることに、大転換をしていた。よみがえった主、生きておられるイエスにお会いすることは、それほどに、一人の人生を変えるものであった。彼は、自分で驚きながら、でも、主イエスに押し出されるように、新しい道を歩み始めた。

1、サウロの人生の方向転換は、自分の意志によるものではなかった。主なる神ご自身が、彼を選び、備えをさせ、時が満ちて、いよいよ主イエスを宣べ伝える器として、送り出しておられたのである。サウロ自身は、その事実をどのように受け止めたのか、すなわち、どのように心備えをしたのか、そのことについて、ガラテヤ1章16〜17節で触れられている。「・・・私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」彼は、祈るためにアラビヤに行き、主の導きと守りを確信してダマスコに戻り、迷うことなく、「イエスは神の子である」と宣べ伝え始めたものと考えられている。彼自身が、そんな教えが広まってはならない、イエスが死からよみがえったなど、とんでもないと確信して止まなかったことを、その通りと語り始めていた。自分の中で、驚きがあったに違いない。もっと驚いたのは、ダマスコにいた人々である。サウロが、主の弟子たちを迫害するために来たことを、多くの人は知っていた。けれども、人々の驚きや戸惑いなど全く気にせず、彼はますます力強く、「イエスがキリストである」ことを語り続けた。(21〜22節)

2、たった一日にして、人がそこまで変わることができるのか。そこまで人を変える出来事とは、一体何であろう。サウロは「あのナザレのイエスは十字架で死んだ」と、そう信じていた。人は必ず死ぬ、死んで終わり・・・と。だから、死んだはずのイエスが、よみがえって生きていると教えてはならない・・・と、主の弟子たちに対して、激しい「脅かしと殺害の意に燃えて」いた。彼が変わったのは、生きておられるイエスが、彼に現れ、声をかけ、彼をして、イエスの名を宣べ伝える器とされたからである。イエスが生きておられることに、彼は衝撃を受けた。考えもしなかったことであるが、主イエスは生きておられると、彼も信じることになった。それは、信じない人、信じようとしない人には、どうしても理解できないことであった。しかし、彼にとっては強烈な体験であり、イエス・キリストのよみがえりこそ、サウロの人生を大転換させた一大事、根本の出来事であった。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。・・・そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」(コリント第一15:3-8)

3、サウロの生き方が全く違うものとなったことによって、衝撃を受けたのは、迫害を受けていた弟子たちの他に、彼と一緒になって、迫害の先頭に立っていたユダヤ人たちであった。サウロに代わって、一層激しい怒りを表し、遂にサウロを殺そうと、密かに相談を始めていた。恐らく、敵と味方が入り乱れ、誰を信用してよいのか、周りの者は大いに戸惑ったに違いない。きのうまで仲間と思っていた者が、きょうは敵対する者となっていた。サウロの弟子として歩んでいた者の中には、自分はどうすればよいのか、混乱する者もいたことであろう。サウロ殺害の陰謀は、本人の知るところとなって、ユダヤ人たちは、彼を逃がすまいと、昼夜、町の門を全部見張っていた。サウロは追い詰められ、その運命はどうなるのか、ギリギリのところに追い込まれていた。そのギリギリのところで、ダマスコの城壁にある窓から、彼は、夜中、かごに入れられ、吊るされて脱出するのであった。正に危機一髪、彼の命は長らえたが、それ以後、彼は絶えず、ユダヤ人から命を付け狙われることになった。彼の一生は、神に対する、的外れの熱心ゆえの迫害者の歩みから、正しく神を信じる熱心のゆえに、迫害される者の歩みへと転換していた。その歩みは、想像を絶する波乱に満ちるもの、波乱万丈のものとなった。(23〜24節)

<結び> サウロの人生は、なぜ、そこまで大きな大転換をすることになったのであろう。彼の証言によると、よみがえった主イエスにお会いしたからである。彼にとっては、死んだはずのナザレ人イエスが、彼の前に現れ、サウロの名を呼んで、「わたしは生きている」と語りかけておられた。彼は、自分が考えたこととは違う生き方、イエスによって生かされ、用いられる歩みを、躊躇うことなく歩み始めた。弟子たちを捕まえ、死にまで至らせようと、激しく心を燃やしていたのが、反対に、自分が捕えられ、殺されそうになるという、波乱に包まれることになった。けれども、彼は、恐れることも戸惑うこともなく、身に降りかかる全てを受け止めていた。イエスは生きておられる。よみがえったイエスが、私の全てを支配しておられ、私の行く道の全てにおいて、共におられ、良いことも、悪いことも、何があっても、私を支えて下さると信じたからである。主イエスが共におられる人生、それがどんなに波乱万丈でも、その人生こそが最善、最高のものと、彼は心から信じていた。(ピリピ4:12-13)

 私たちはどのように生きるのだろうか。私たちも、主イエスを信じて歩む人生こそ、最善で最高のもの、そこにこそ本当の幸いがあると、心から信じる信仰に進ませていただこうではないか。