「砕かれた、悔いた心 −生き方を変える−」をテーマに、伝道集会の二日目を迎えた。今朝は、昨年も礼拝にて開いた聖書個所、ザアカイが主イエスに出会って、救いに入れられた出来事を、思いを新たにして読むことにする。何度も聞いている話、よく知っている・・・と思われるに違いない。けれども、聖書の中で、主イエスにお会いして、自分の生き方を変えた人として、ザアカイという取税人は、特筆される一人と思われる。もし自分だったらどうするだろうか・・・等々を考えながら、今朝も聖書に耳を傾けてみたい。
1、エリコという町に入る前、イエスは弟子たちに語っておられた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(18:24-25)罪を赦され、神の国に入れていただくこと、神によって救われ、永遠のいのちをいただくことについて、それは容易いことでないと教えておられた。弟子たちは、救われることの難しさを思って、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と、神の国に入れていただける人はいないのでは・・・と、驚き、落胆するばかりであった。それに対して、「人にはできないことが、神にはできるのです」と、イエスは答えておられた。救われることは、人の業でなく、神がして下さること、神の救いは、貧しい人も、金持ちも、何ら区別がないこと、その実例が、エリコの町の盲人であり、ザアカイであると、聖書は告げている。神の国に入るのが難しいと言われた金持ちのザアカイ、彼がイエスにひかれたのは、一体何であったろうか。心ひかれたのは、恐らく、取税人や罪人と、いつも親しくされたことを聞いていたからに違いない。せっかく取税人になって、金持ちになっていたのに、彼の人生は、心を満たされることなく、どうにもできない寂しさが、いつも付きまとっていたものと思われる。「・・・ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」(1〜3節)イエスを見ようとしたのに、背が低く、群衆のために見ることができなかったのは、彼に目を留め、手を差し伸べてくれる人が、一人もいなかったということである。
2、「ザアカイ」という名前は、「義人」または「清い人」を意味していた。「義しい人になるように」「清い心で生きるように」と願って、親は名づけたに違いない。ところが、なぜか屈折した日々を過ごし、不当な蓄財をして金持ちになり、それなりの地位を得ていた。そのザアカイが、イエスを見ようとした時、群衆に遮られ、どうすることもできなかった。社会的な地位も金持ちであるという事実も、何ら通用しなかった。かなり気落ちしていたに違いない。けれども、何とかして、イエスを見たいと思った。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」(4節)木に登っても、イエスと見ることができるかどうかは、分からなかった。しかし、イエスご自身が彼に目を留め、語り掛けて下さった。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」いきなり名前を呼ばれたザアカイは、驚いたに違いない。けれども、言われた通り、急いで降りて来て、大喜びでイエスを、自分の家に迎え入れた。(5〜6節)
3、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」イエスは、ザアカイの名を呼んで、「泊めて下さい」ではなく、「わたしはあなたの家に泊まるべきである」という意味を込め、もう決めたことと語っておられた。ザアカイは、その決め事を喜ぶように、イエスを迎え入れた。この方に自分を明け渡す、その決意をしてイエスを自分の家に案内した。これを見ていた人々がつぶやいても、ザアカイは、もう心の底から悔い改めていた。「・・・『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」(7〜8節)周りの人がどのように思っていたとしても、主イエスが私を認めて下さったことが嬉しかった。この方の前に、自分の生き方を変えよう、変えていただきたいと、心から願っていた。彼の悔い改めの心を、誰よりも喜ばれたのはイエスご自身である。「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うため来たのです。』」(9〜10節)神に背を向けていたザアカイは、イエスに出会って、自分の生き方を改めたいと、罪を悔い、新しい思いで生きることを、主イエスに告げていた。彼は、確かに救いに導かれた。主ご自身が、「あなたもわたしの大切な子である」と宣言しておられる。金持ちであっても、救って下さるのは神ご自身であって、神にとって不可能は、決してない。主は、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と語って、一人でも多く、失われた人を、なお探し続けることを宣言しておられる。
<結び> このザアカイの回心は、本当の意味で主イエスにお会いした人は、必ずその心が動かされる事実を、私たちに教えてくれる。ザアカイは、主イエスの前に立つ時、自分の全てが露わであると悟った。全てお見通しであって、隠しおおせることはできない・・・と。それで、何も言われないでも、自分から、罪の告白と、新たな決意を述べている。彼が、不正をし、不当に蓄財したのは、神の目にも、人の目にも明らかであった。人の目をごまかすことは、多々あったに違いない。しかし、神の目はごまかせないことを、主イエスにお会いして、気づかないわけにはいかなかった。主イエスは、失われていたザアカイを捜しておられた。彼が神に立ち帰るために、エリコの町に来て、彼を捜し出し、救って下さったのである。大勢の人だかりの中で、彼を見出し、近寄り、声をかけておられた。彼の前を通り過ごさず、彼に声を掛け、彼の家に行かれた。彼は、そのことが嬉しかった。「あなたを信じます!あなたに従います!!」とばかりに、悔い改めの言葉を発していた。彼は「砕かれた、悔いた心」で、自分をイエスに明け渡していた。その全てを主は見抜いておられた。だから「きょう、救いがこの家に来ました」と、救いを宣告して下さったのである。
私たちは、主イエスの前に立つなら、どうするだろうか。心の底まで見通されていることに気づくであろうか。或いは、主ご自身が、私を捜し出し、見出して近づいて下さっていると、気づくであろうか。私たちが信仰に導かれているのは、主が、失われていた私たちを捜し、見つけて救いへと招き入れて下さったからである。主イエスに見出され、イエスを信じる信仰へと導かれているのである。そのことに気づいて、いよいよ心を砕かれ、悔いた心で、感謝をもって、日々を歩むこと、それがこの上もなく大切であることを覚えたい。私たち一人一人、神ご自身によって見出され、神と共に歩む幸いを与えられている。その感謝の内を、共に歩む方が、また新たに起こされることを祈りたい。今、信仰を求めておられる方、聖書を読んでみたいと教会に集われる方、家族や友人に誘われて今日集われた方々に、主イエスを、救い主と信じて歩む、幸いな日々のあることを知って、一歩踏み出して下さるようお勧めしたい。主イエス・キリストは、今も、失われた人を捜して救う働きを、教会を通して成しておられる。私たちの教会が、そのために用いていただけるなら、何と幸いなことであろうか。
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