今年は、「砕かれた、悔いた心 ー生き方を変えるー」というテーマにて、二日間の伝道集会を開催することになった。このテーマに行き着いた理由は、実に激しく揺れ動く世の中にあって、私たちの生き方は、このままで良いのか、何か根本的に問われていることはないのか、そんな自問自答があったからである。それと共に、私たち人間は、どんな人に魅力を感じているのだろうか、また、どんな人間になりたいと思っているのでだろうか、そんなことを考えるうちに、やはり、人間を造られた神ご自身が、私たち人間に望んでおられることを、聖書から学び直したい、と思われたからである。神が善しとされるのは、私たちが心を低くすることであると、聖書全体が教えている。(詩篇51:16-17、箴言15:33、18:12)それなのに、私たちは、どうしても人間の側からの視点で考え、しかも、その視点のみで物事を捉えようとする。そのため、聖書が教える神の側からの視点と対立して、私たちは戸惑い、悩み、また反発する。神に従うことを選ばず、自分の道を突き進むことになる。不思議なのは、神がそれを止めることはなく、そうするのを許しておられることである。どうして?・・・と思う。けれども、それら全ては、神の愛の御手の中にあることが、はっきり分かる時が備えられている。主イエスが語られた「放蕩息子のたとえ」は、そのことを私たちに教えてくれる。何があっても、最後は、「わたしのところに帰って来なさい・・・」と。
1、父に対する弟息子の言葉、そして行動は、周りの人々から非難の的であったと思われる。「『お父さん。私に財産の分け前を下さい。』」(12節)どんな事情があったのか、その後の彼の身に降りかかったことから分かるのは、彼は、地道に働く気は全くなく、お金に頼って遊び暮らしたいと、ただそのことだけで行動していたことである。二人兄弟の弟の分け前は、父の財産の三分の一となる。彼の計算では、これで十分に遊び暮らせる・・・であったと思われる。ところが、「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」その後に、「大ききん」がその地を襲ったので、「彼は食べるのにも困り始めた。」堕ちるところまで堕ちた彼は、恥を忍んで、豚の世話をすることになった。彼にとって、最低の状態であり、「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。」(13〜16節)全く見放され、助けがなく、絶望が彼の心を押し潰していた。自分の身に置き換えて考えてみると、私たちは、この弟息子ほどに、どん底に堕ちたこと、沈んで絶望したことはないのかもしれない。辛いこと、苦しいこと、悲しいことなど、いろいろ経験はしても、どうにもならない・・・というところまでは、そうあるものではない。そのため、まだ自分で何とかできる、いや、しなければならない・・・と、頑張るのかもしれない。(※自分の行く末を、本気で考えることなく過ごすことになる。それでいいのだろうか・・・)弟息子は、その頑張りさえ最早無理となって、初めて、自分の惨めさに気づいた。「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。・・・』」(17節)彼は、何と愚かなことをしているのか、と分かった。
2、「我に返ったとき」彼が気づいたこと、そして、心に決めたことは、父のところに帰ろう、そして、自分が間違っていたことを、はっきり謝ろう・・・という二点であった。「『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」(18〜19節)彼の悔い改めは、心の底からのものであった。自分の無力さを認め、絶望した者だけが、真実な悔い改めへと進むことができる。彼は、自分がいるべきところ、帰るべきところは、父の家であることが分かった。しかし、そこにいる権利があるとか、自分は息子だから当然とは思わず、「雇い人のひとりにしてください」と、自分をわきまえる者となっていた。主イエスは、このたとえ話によって、どんな人でも、自分の人生を振り返る時が、必ずおとずれること、その時、本気で自分の生き方を問い直すのか、それとも素通りするのか、あなた自身のことを考えなさい、と語っておられた。ルカ福音書15章1節以下の三つのたとえで、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と語って、罪人が心から悔い改めるのを、神が喜んでおられることを教えておられた。天で、父なる神の前に大きな喜びがわき上がるのは、罪ある者が心から悔い改め、神の前に立ち返る時である。「我に返った」彼は、迷わず立ち上がって、父の家を目指して進んだが、その足取りはどんなであったろうか。空腹で歩くのもやっと、途中、休み休みしたことであろう。
3、ようやく家に近づいた時である。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうい思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)彼が父を見つけるより前に、父が彼を見つけ、駆け寄って、息子を抱きしめた。父は、息子の帰りを待ちわびていた。息子のよれよれの姿を見て、心を痛め、ただただ抱きしめてやりたいと思った。息子は、必死になって、天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました、あなたの子と呼ばれる資格はありません・・・と告げていたが、父は、それを聞いてか聞かずか、息子として迎え、大喜びで、息子の帰還を祝うことにした。「『この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』」(21〜24節)父の喜びは、死んでいた者が生き返る喜び、いなくなっていた者が見つかる喜びであった。その喜びは計りしれないもの、他の何ものにも代えられない喜びである。ところが、その父の喜びを一緒に喜べなかった、兄息子がいたことが語られている。兄は、弟のことで大喜びする父親に、自分の不満をぶつけた。自分勝手な弟のために、一体どうしてこんなにまでするのか。自分のためには、何もしてくれないではないか・・・と。「『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部お前のものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」彼は、父と共にいる幸いを見失っていた。父が喜んだのは、死んでいた者が再び生きることであって、失われた者が見出されたからである。主が、このたとえを通して語っておられるのは、教えを聞く者が、自分はどこにいるのか、神の前に死んだままなのか、失われたままなのか、よくよく考えるように。そして、もし失われているなら、今こそ我に返るように。弟息子が、「我に返ったとき」、迷わず父の家に帰ろうとしたと同じように、あなたも、父の家に、すなわち、父なる神の前に、立ち返るよう語っておられた。(25〜32節)
結び 今日、ここにいる私たちは、たとえの弟息子のように、放蕩に明け暮れるという、とんでもない生き方をしてはいないに違いない。けれども、神から離れて、自分勝手に生きるという意味では、ほとんど全ての人が、お金を頼りに、自分の生きたいように生きている事実がある。その行き着くところが破滅であり、必ず行き詰まるとしても、その破綻する惨状が、十分に認識されないだけである。少しでも目を見開いて、今の生活がこのまま続くのか、もしこのまま行くなら、どうようなことになるのかを考えるなら、私たちは、一刻も早く、立ち止まって、我に返ることが必要と、はっきり気づくはずである。(※気づかねばならない! 原発事故のことや地球温暖化のことなど、私たちは気づき始めたのかもしれない・・・)このままでは破綻すると気づいて、我に返るように、主イエスは、私たちにも語っておられる。父なる神は、私たちが神に立ち返るのを待っておられる。私たちが、心から神の前に進み出るのを待っておられ、父なる神ご自身は、私たちを見つけて、走り寄って抱きしめようと・・・。
私たち一人一人の人生において、神なしで生き続けるのか、それとも、神の前に立ち返って生きるのか、必ず、自分の心の中を探るべき時が来ることを覚えたい。神なしで生きることは、神の前に罪ある者として生きることである。その先にあるのは、死であって、神の裁きである。けれども、神は私たちに、イエス・キリストを信じて、罪を赦された者として生きる道を備えて下さっている。私たちも、「我に返り」、これまでとは違う生き方のあることに気づいて、一歩踏み出すように、主イエスは語っておられる。罪を認め、悔い改めて神に立ち返ることを、神が大喜びして下さることを心に刻みたい。
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