礼拝説教要旨(2015.10.11) 
サウロの回心
(使徒の働き 9:1〜19a)

 ペンテコステの日以来、目覚ましい歩みをしていたイエスをキリストと信じる弟子たちの群れは、サウロを中心とするユダヤ人による迫害によって、エルサレムから散らされて行った。ギリシャ語を使うユダヤ人の弟子たちの多くが、ユダヤとサマリヤの諸地方へと逃れていたが、彼らは、ただ逃げ惑うのではなく、「みことばを宣べながら、巡り歩いた」のであった。主に、北へ北へと進みながら、そここで福音を宣べ伝えていたピリポは、サマリヤの町々で伝道して、多くの実を結んでいた。けれども神ご自身は、そのピリポを南に遣わし、一人のエチオピア人を確かな信仰へと導かれた。神は、多くの人々を救いに招いておられ、同時に、一人を救いに導くため、特別に手を差し伸べておられたのである。そして、使徒の働きは、9章に進み、サウロの回心の出来事を記して、いよいよ、異邦人への福音宣教の始まりを告げている。

1、サウロの、イエスの弟子たちに対する激しい怒りの思いは、ますます燃え盛っていた。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」(1〜2節)弟子たちはサマリヤから更に北へ進み、シリヤのダマスコにまで逃れていた。その町で、主の弟子たちが信仰に固く立ち、新しい弟子たちが増し加えられているという知らせが、エルサレムに届いていた。ユダヤ人の指導者たちは、危機感を抱いていた。彼らは、「この道の者」、すなわち「イエスを信じる者」を亡き者とするため、全権をサウロの託したので、彼は仲間を引き連れ、意気揚々とダマスコへと向かっていた。その途上、「突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」サウロは、眩い光に圧倒され、倒れたまま、自分の名を呼ぶ声と、「なぜわたしを迫害するのか」との声を聞いた。人々を迫害するのは、わたしに対するものであると、主イエスが語り掛けておられた。(3〜4節)

2、戸惑うサウロに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」と、主は答えられた。(5〜6節)「わたしは、あなたが迫害するイエスである。」彼は、この答えを驚きをもって聞いた。十字架で死んだ、あのイエスがよみがえったなど、とんでもない教えを、決して広めてはならない・・・と考えていたからである。けれども、今、「わたしは・・・イエスである」と聞いて、頭は混乱し、自分はどう理解して、どのようにすべきなのか、恐れと不安の中に、閉じ込められた。それに対して、主は、彼の成すべきことを告げ、彼に将来を備えていることを暗示し、彼を立たせようとされた。同行していた仲間たちは、光に照らされ、物音も聞こえたものの、何事が起ったのかは理解できないまま、サウロを支えてダマスコへと連れて行った。(7〜8節)「彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなっかった。」サウロは、真剣に自分の身を振り返り、祈りながら、主イエスの語り掛けを聞き直そうとする、そんな三日間を過ごした。(9節)彼にとって、思いもしないことが起こっていた。十字架で死んだはずのイエスが、自分の名を呼ばれたからである。あのイエスは生きているのか・・・?

3、神ご自身は、サウロのために、新しい生き方を備えておられた。彼が心から悔い改め、真心から主に仕える者となるよう、助けとなる人を備え、道を用意しておられた。ダマスコにいるアナニヤという弟子を遣わし、彼との出会いを通し、サウロに新しい道を示そうとされた。アナニヤは、「サウロ」と聞いて戸惑った。けれども主は、サウロをどのように用いようとしているのか、アナニヤにはっきりと告げられた。「『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」(10〜16節)アナニヤは、主のご計画を知って、サウロを訪ね、彼に手を置いて、主イエスによって遣わされたことを告げ、再び見えるようになるため、また聖霊に満たされるために祈った。そのようにしてサウロは目が開かれ、立ち上がって、バプテスマを受け、聖霊に満たされ、生まれ変わった者として歩み始めた。彼は、四日ぶりに食事をしたことになる。彼は、祈りの内に、イエスをキリストと信じて、この方の導きに従う決意をしていた。彼の人生は、新たな道へと方向転換していたのである。(17〜19a節)

<結び> サウロ、後の名をパウロと名のる人物は、初代教会における最も重要な人物の一人である。彼の回心の仕方は、劇的であって、特別である。死んだと思い込んでいたナザレ人イエスが、はっきりと彼の前に現れ、声を掛け、「わたしは生きている」と迫られたからである。彼は、ほとんど有無を言わされず、主イエスを信じて、従うことになった。死からよみがえったイエスが、自分の前に現れたことを信じたからである。また、それまでに自分がしたことを咎められることなく、「わたしのために生きよ」と言われたからである。しかも、「わたしは、おまえのことを全部知っている。わたしの証人として遣わす・・・」とまで言われていた。彼は、自分の罪が赦されることを実感し、これからは、この方のためにだけ生きようと、心から決意した。神にあって生かされる幸いを、心の底から知ることができたからである。復活の主イエス・キリストにお会いする幸いこそ、私たちにとっても、真の幸いであり、神に造られた人間として生きる上で、一番大切なことなのである。(使徒22:3-21、26:2-23、テモテ第一1:12-17、コリント第一15:3-11)※サウロの回心:紀元32、3年頃

 私たちは、サウロと同じような回心の経験をするわけではない。一人一人、かなりの個人差がある。けれども、聖書を通して、よみがえった主イエスにお会いする時、私たちも新しいいのちに生きる者とされる。それまで、神に背を向けていた者が、罪を認めて神に立ち返ること、そのような意味での回心こそが、神と共に生きることの第一歩である。自分勝手に、これが正しいと思い込んでいたとしたら、そこで立ち止まり、方向転換すること、そのような意味での回心が、私たちにも必要である。既に信仰をもって歩んでいる者は、自分が回心した時のことを忘れないように。神が恵みを注いで、私たちを滅びからいのちへと導いて下ったのである。まだ信仰はよく分からないと思っていても、主は、いつも語り掛けて下さっていることに気づくことが大事である。名前を呼んで、「わたしはイエスである」と、主が語って下さっていることに、心の耳を傾けることが導かれるように。