礼拝説教要旨(2015.09.20) 
福音宣教の拡がり
(使徒の働き 8:1〜8)

 ステパノは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰の在り方が、それまでユダヤ人が守り通していた在り方とは違うことを主張したため、とうとう殉教の死を遂げることになった。エルサレムの神殿に拘ることも、律法の定めに縛られることもない信仰の在り方が、その中で育って、それを一番と考える人々からの強い反発を受けたからであった。ステパノが石で打ち殺される時、サウロは、それに賛成し、石を投げる人々の着物を預かっていた。その日を境に、彼と思いを同じくするユダヤ人たちの怒りに火が付き、エルサレムの教会に対する迫害の炎が燃え上がった。その迫害は激しく、多くの弟子たちが、エルサレムから逃げ出さねばならないことになった。(1節)

1、使徒の働きは、この8章から第三幕となる。紀元第一世紀の初代教会が、驚くほどの勢いで成長し、やがて、当時のローマ帝国中に福音が届けられるまでになる、その第一歩が記されている。イエスをキリストと信じる人々、キリストの弟子たちは、最初はエルサレムに留まり、宮に集まり、また家々で集まり、土曜日の安息日も、そして、復活を記念する「週の初めの日」にも、礼拝をささげていた。ステパノは、早くから、宮(神殿)から離れ、ユダヤ教の要素から離れることを説いていた。そのような気づきは、生まれながらのユダヤ人の弟子たちより、ギリシャ語を話すユダヤ人(※ヘレニスト)の弟子たちに顕著であった。迫害は、先ず、彼らに向かって激しくなり、「使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」そのため、ステパノの葬りに心を配ったのは、エルサレムに留まることができた人々である。彼らは「敬虔な人たち」と言われ、元々、エルサレムに住んでいたユダヤ人の弟子たちと考えられている。彼らは、ユダヤ人の議会の決定に心を痛め、深い悲しみと同情を抱いて、また心を決めてステパノを葬った。主イエスの葬りのため、思い切って進み出たアリマタヤのヨセフやニコデモと、同じような信仰の決心をしていたと思われる。(2節)ユダヤ人の社会にの中にあっても、はっきりイエスをキリストと信じて歩もう!と。

2、エルサレムに留まることができたのは、使徒たちの他には、「敬虔な人たち」と言われるユダヤ人の弟子たちであったが、迫害は、猛烈な勢いで教会を襲っていた。怒りの矛先は、ヘレニストと言われるユダヤ人に向けられていた。その迫害の中心にいたのがサウロである。「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」(3節)彼は自分も同じヘレニストとして、旧約聖書に従い、神を信じて、神に忠誠を誓い、神の前に正しく生きたいと願っていたので、同じような境遇にいる者たちの信仰に、特に苛立ち、これを正そうと考えたと思われる。彼の迫害の激しさについては、「教会を荒らし」と言われる、「荒々しさ」にあった。それは、野獣が人間を襲う時の「荒々しさ」を表す言葉(※リュマイノマイ:絶え間なく攻め苦しめる、破壊する)で表され、周りの静止も効かない、熱狂に近いものであった。十字架で死んだイエスがよみがえったなど、とんでもない教えを広めさせてはならない、どんなことをしても、キリストを信じる者を亡き者にしたい・・・と。けれども、神のご計画は人の思いを超えていた。迫害のために散らされた人々は、「みことばを宣べながら、巡り歩いた。」神は散らされた人たちを用いて、福音を、エルサレムからユダヤとサマリヤ、更には地の果てにまで、いよいよ広めさせようとしておられた。(4節)

3、サマリヤの町へ下って行った一人はピリポであった。彼は、ステパノとともに執事に選ばれた一人であった。彼もまた、仕えるだけでなく、福音を語る賜物を与えられ、力ある「しるし」を行う賜物も与えられていたので、多くの人々が、「彼の語ることに耳を傾けた。」汚れた霊が追い出され、中風や足なえの者が癒されるのを見て、サマリヤの町に、「大きな喜びが起こった」ほどに、彼の働きは際立っていた。(5〜8節)主イエスが、天に昇られる前に約束された言葉が、その通り実現している。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:18)迫害によって散らされることは、人の目には、マイナスの出来事を思われるとしても、神のご計画では、プラスのこと、予めのご計画の通りであった。神のご計画は、寸分の狂いもなく前進すること、しかも、ピリポに力ある「しるし」を行わせ、彼の行く先の町に「大きな喜び」をもたらしておられたことを、私たちは、はっきりと知らされる。どんな障害が発生しようと、福音宣教の業は、確実に拡がり、止められることはない・・・と。

<結び> エルサレムの教会が、この迫害によってどれだけの痛手を被ったのか、どれだけ人数が減ったのかは定かではない。残った使徒たちを中心にして、敬虔なユダヤ人の弟子たちがいて、群れは存続していた。この後、サウロが回心して、異邦人世界への福音宣教が本格化し、地の果てにまでの宣教が視野に入って来る。そのようにして、やがて、今日の私たちにまで、確かに福音が届けられたことに、驚くとともに、感謝をささげるばかりである。

 今朝、私たちが心に留めるべきことは、「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」という記述ではないか。迫害で散らされた人々が、悲しみや憂いに沈んでいる様子はなく、その悲劇を好機に転じて、幾分か嬉々としている様子が感じられる。イエスをキリストと信じて歩む日々は、いつ、どこにいても、どんなことが襲っても、最高の幸せ、最大の喜びであると、彼らは信じていたのに違いない。十字架で死なれた主イエスは、三日目に死からよみがえり、弟子たちの前に確かに現れ、トマスに、「信じる者になりなさい」と声をかけておられた。(ヨハネ20:26-29)主イエスが天に昇られた後、ペンテコステの日に聖霊を遣わして下さり、力を受けた弟子たちは、一層の確信をいただいて、イエスの復活の証人として歩み始めた。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と。(使徒4:20)私たち一人一人も、主イエスを救い主と信じた者として、イエス・キリストの福音を証しする歩みを、しっかり歩ませていただけるよう祈りたい。教会全体の歩みとともに、一人一人の日々の歩みが、福音宣教の拡がりにつながることを導かれるよう祈りつつ。