ステパノが淡々と語ったイスラエルの民の歴史は、アブラハムからの神の民の歩みであった。アブラハムの信仰は、神の約束を信じ切る信仰で、この世で何かを報われることはなかった。それでも神に従った信仰であり、そのような信仰が、モーセにも受け継がれていたことを語り続けていた。民に退けられたモーセが、失意の中で四十年を過ごしていた時、神を信じるモーセに、神がシナイの荒野で、芝の燃える炎の中に現れ、彼をご自身の器として用いることになるのであった。その時、神が、「『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。・・・』」と言われた言葉に、大切な真理が明らかにされていると、ステパノは気づいたのである。(30〜34節)
1、モーセはエジプトから逃れ、シナイ半島も越え、アカバ湾の東側になるミデアンの地に、四十年も過ごしていた。そこで結婚もし、家族を与えられ、しゅうとイテロの羊を飼っていた。その羊を連れ、神の山ホレブ(シナイ山)にまで来ていた時、神からの語りかけを聞くことになった。神は、ご自分のことを「わたしはあなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と、先ず告げられた。神は、「わたしは生きている神、死んだ者の神ではない」と、生きて働く神であると言われたのである。そして「あなたの立っている所は聖なる地である」と言われた。今いる所、神と相対する所は、どこでも「聖なる地である」と告げられた。神殿だけが聖なる場所、そこが大事とこだわるのは、もともと筋違いなのである。また、人々が拒んだモーセが遣わされるのは、神ご自身によることであり、神がモーセをして民を導かれたのは、主イエスご自身の生涯と、見事に重なっていると、ステパノは気づいた。その重なり方について、「『神はあなたがのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』」と、モーセによって預言されていたことを告げている。(35〜37節、出エジプト3:1-14、申命記18:15)
2、モーセの役割の中心については、「また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです」と、はっきりと告げる。(38節)すなわち、モーセが民に語った言葉は、神から託された「みことば」であって、民は、その「生けるみことば」に聞き従うことが求められていた。「荒野の集会」とは、モーセが神からの「みことば」を語る時、それを聞く人々の群れは、特別な「集会」、すなわち「教会」であったことを表している。神の民の責任の一番は、神の「みことば」に聞き従い、神ご自身に従うことなのである。ところが、人々はモーセが語る神からの言葉に従わず、金の子牛を作って、それに仕えることをした。それは、神が忌み嫌う偶像礼拝そのものであったが、神は、民がするままにさせる一方、「あかしの幕屋」を造らせ、民がどこへ行っても、「わたしはあなたとともにいる」とのしるしを、明らかにしておられた。そのようにして、モーセ、ヨシュア、そしてダビデの時代に至るまで、神はご自身の民に、常に豊かな恵みを注ぎ続けておられたのである。(39〜45節)
3、ダビデは、王となった時、神への感謝を表そうとして、神殿を造りたいと願った。けれども、それは実現せず、ソロモンの時に、神殿は建てられた。それについて、ステパノは断言した。「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っている通りです。」(46〜48節)彼の気づきは、神の宮を建てることを、神ご自身は望んではおられなかった、という事実である。(49〜50節、イザヤ66:1-2)「幕屋」に代わり、「神殿」という立派な建物ができたとしても、また、そこでどんなに厳かなことが行われたとしても、人々が、神の「みことば」を聞き、その教えに聞き従うことがなければ、全ては空しく過ぎ去るだけとなる。天と地を造られた神が、人の手による「神殿」に住むことなど、決して有り得ないことである。人がどんなに頑張ったとしても、天地を造られた神、創造主であられる神に並ぶことはできない。その事実こそ、人は、謙虚になって認めなければならない。それなのに、「あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。・・・今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」ステパノの言葉は、一気に人々を責め立てるものとなり、人々の心の頑なさに切り込むことになった。反発もまた、激しくなり、彼は石をもって打たれ、殉教の死を遂げるのである。(51〜60節)
<結び> アブラハムから始まる神の民の歩みにおいて、神を信じる人々は、天と地を造られた神が、ご自身の民を守り導いて下さることを、確かに信じていた筈であった。その信仰を保ち続けるには、神の「みことば」に聞き従い、神の約束を信じ切って従い通すことが、何よりも大事であった。ところが、人々は、目に見える何か、確かと思えるものを求め、「私たちに先立って行く神々を作って下さい」と願って、子牛を作ってしまった。人は、自分の手で作ったもので満足するという、愚かさの中に堕ちる。ところが、厳しいのは、神が、人をその愚かさのままにされることである。人は、神を「神殿」に閉じ込めてしまった。天と地の造り主なる神は、はるかに偉大で、「天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である」と言われることを見失って・・・。
ステパノは、地上のいのちの終わりが近づいた時、天を見上げ、そこに主イエスがおられるのを見ていた。天の御国に入れられることを望み見て、平安を得ていた。それゆえに、自分に敵対する者のためにも祈ることができた。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」彼は、主イエスが十字架に付けられていた時、その場を目撃し、主イエスの言動の一切を見ていたのかもしれない。いずれにせよ、主イエスの十字架と復活の出来事を経て、真の信仰の在り方を、彼は、はっきりと悟ることができた。神殿に縛られることのない、また律法の定めに縛られることのない、心から神を信じる信仰の尊さ、見えることに縛られない、目には見えない、天と地の救り主なる神を信じる信仰こそが大切であることを。私たちも、そのような信仰、すなわち、天地の造り主である神を信じ、その神が遣わされたイエス・キリストを救い主と信じ、真心から神の「みことば」に従う信仰へと進ませていただきたい。
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