礼拝説教要旨(2015.09.27) 
彼らは聖霊を受けた 
(使徒の働き 8:9〜25)

 ステパノが殉教の死を遂げた日を境に、ユダヤ人による迫害の火の手がエルサレム教会を襲った。迫害は悲しむべきことであったが、「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(8:4)キリストの福音は、主の約束の通り、着々と広められたので、サマリヤの町に「大きな喜びが起こった。」(8:8)ピリポが、人々にキリストを宣べ伝え、また、確かな「しるし」を行ったので、多くの人の心が揺さぶられ、イエスを信じる信仰に進む人々が起こされていたからである。サマリヤでの福音の拡がりは目覚ましく、その様子をじっと見ていたのが「シモン」である。彼は、自分が行っていた魔術と比べながら、ピリポについて行き、彼も信じて、「バプテスマ受け」た。多くの人が、ピリポが語る福音を受け入れ、イエスをキリストと信じ、洗礼を受けるのを見て、自分もと思ったのは事実であった。(9〜13節)

1、サマリヤの町で、人々が次々と主イエスを信じ、イエスの御名によってバプテスマを受けている・・・との知らせが、エルサレムの教会に届けられたので、教会は、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わすことになった。(14節)ピリポの働きの応援の他に、実際にどのようになっているのか、確かめるためであった。「サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて」、エルサレムでは、ユダヤ人以外に福音が拡がることに、驚きがあったからである。ペテロとヨハネがサマリヤに着いて、すぐにしたのは、人々が聖霊を受けるように祈ることであり、その祈りの通り、「彼らは聖霊を受けた。」15〜17節)人々は、主イエスの名によってバプテスマを受けていたが、聖霊を受けることについては、明白なことがなかったからである。目には見えない聖霊が下ることが、主イエスの約束である。その事実を、目に見えるしるしによって経験したのが、「ペンテコステ」の日の出来事であり、それから余り時間が経っていない時に、サマリヤで弟子たちが誕生したことを、主イエスご自身が喜んでおられ、また人々がしっかり受け止めることができるように、聖霊が下るのを見せておられるのが、この日の出来事である。初代のキリスト教会を、主イエスご自身が力づけ、共におられ、確かに導いておられた。

2、この出来事を見ていたシモンは、早速のように、ペテロたちの前に金を差し出して言った。「『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。』」(18〜19節)彼の興味は、自分の魔術を、一層人々に知らしめるには、使徒たちが持っている権威が有効・・・ということであった。今の自分にないもの、使徒たちが持っているもの、それをお金で買いたい・・・と考えた。けれども、ペテロによってきっぱりと退けられた。彼はお金さえあれば、何でも買えると考えていた。その考えは、現代の私たちにも通じるものである。ペテロは、「『・・・あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。・・・」と、彼に、真実な悔い改めを迫った。(20〜23節)本気で神を信じ、神が遣わして下さった主イエスを、救い主キリストと信じることだけが、罪にまみれ、悪に染まった私たちを、その罪の中から救い出して下さる道である。果たしてシモンは信じたのであろうか。彼の言葉が、どこまで真実であったのか、やや疑問が残る。(24節)

3、サマリヤでの使徒たちの働きは、実際に目覚ましく、同時に、人々の心に恐れを抱かせるものであった。「このようにして、使徒たちは、おごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。」(25節)その中で魔術師シモンの登場は、先のアナニヤとサッピラ夫婦の出来事と似たような、教会全体への衝撃を与えたものと思われる。教会の成長と発展の時こそ、様々な罪の誘惑が入り込み、神を恐れるより、目先のこと、この世の富の惑わしが、巧妙に付け入ることがある。シモンにとっては、これまでの自分の名声が脅かされ、人々がピリポや使徒たちにどんどん傾くのが、きっと我慢ならなかった。それで、使徒たちが持っている権威を、自分も欲しいと願ったのである。主イエスを表向きは信じたものの、心の底から信じたかどうかは怪しく、彼は、聖霊を受けた人々の中にはいなかったと思われる。彼はペテロたちのすることを見ていて、同じようにしたいと願ったからである。主イエスを信じて、バプテスマを受け、聖霊を受けることが、イエスをキリストと信じる者にとっての、大切な第一歩である。但し、聖霊を受けることが、目に見える形で明らかになるのは、この時と、この後の、コルネリオの家でのことなどに限られていた。

<結び> 信じた人に、聖霊が賜物として与えられることは、全くの恵みであり、弟子たちはみな、聖霊を受けて、喜びと感謝に溢れるのである。信仰は恵みによって与えられること、聖霊を受けるのも、全くの恵みによることであって、代価を払って手にするものではない。この原理原則は、主イエスを救い主キリストと信じる信仰の根幹である。言い換えれば、私たちの信仰は、この世で何かのご利益を受けるものとは、全く違っているということである。極論すれば、この世的なご利益は、一切ないと言える。

 ところが、今日、巧妙に、この世での祝福を説く教えが、キリスト教会に入り込んでいる事実がある。魔術師シモンが考えたようなこと、信心を通して、この世での利得を求めることが、教会にも侵入している。事実、大教会が生まれ、その教会のやり方に学ぼうとする教えが奨められている。しかし、このサマリヤの町で起こったことは、私たちへの警告である。主イエスを信じて歩む私たちは、単純に、イエスをキリストと信じて、私たちも聖霊を受けた一人として、罪を赦されて歩む日々を、喜びをもって歩むこと、そのような信仰の在り方を大切にしたい。人の言うこと、また魔術のようなものに心を縛られることなく、本当の自由を得て、自分の責任で生きる幸いを、しっかりと生きることをさせていただきたいと願う。天の御国を目指しながら、この世にあっても、確かな知恵と力をいただいて歩ませていただくことを!
(※ヨハネ14:16、26、16:13、使徒1:8)