礼拝説教要旨(2015.08.30) 
望みは一つ
エペソ 4:1−6 横田俊樹師

司会者の方には1−6節まで読んでいただきましたが、今日はその中の4節の後半、「あなた方が召された時、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」という所から、クリスチャンが持っている望みについて、お話しさせて頂きたいと思います。

1 神様は私たちをご自分の御国へと招いておられる。
このエペソ人への手紙が書かれたのは、紀元1世紀の事ですが、当時のクリスチャンたちが信仰に導かれた時、一つの共通の希望を持っていたんですね。教会に集まっていたクリスチャンたちは、一つのゴール、目的地を共有して、そこに向かっているという意識がありました。「教会」と日本語に訳されている言葉は、元のギリシャ語ではエクレシアと言います。これは元々は「召す」「呼ぶ」という言葉から出た言葉で、「召された人たち」あるいは「召し出された人たち」という意味の言葉です。で、「召す」という日本語自体が、今はあまり使わない言葉かもしれませんが、簡単に言うと「呼ぶ」とか「呼び寄せる」という意味です。どちらかというと、位の高い(偉い)人が誰かを呼ぶ、呼び寄せる時に使われる言葉かと思います。王様が、だれそれを召しておられる、とか、お殿様がどこの誰べえをお召しであられる、とか、いうふうに使われます。そのように、エクレシアとは元々は、召し出された人たちの集まりという意味の言葉でした。教会に集う人たちは、神様によって召し集められた人たちです。聖書はこの世界には裁きの時が定められていて、最後には罪の今の世は滅び去ると教えています。ですからその前に、神様は愛する者たちをそこから召し出しておられるのです。そして永遠に続く御国、神様の御国を受け継がせてくださろうと、人々を召し集めておられるのです。私たちが向かっているところ、目的地、ゴールは、神様と人とがともに住む神様の御国です。時代と国境を越えて、大昔の信仰者もどこの国の信仰者も、心ひとつにして待ち望んでいたのが、この神様の御国です。
世のはじめ、神様がこの世界を造られた時には、神様と人はいっしょに住んでいました。エデンの園と言われるところで、アダムとエバが住んでいました。ところがそこに、サタンの惑わしによって人が罪を犯してしまいました。聖なる義なる神様は、罪のあるところにはいっしょに御住みになる事ができません。人はエデンの園を追放され、神様と一緒に住むことができなくなってしまいました。悲しまれたのは、人間よりも、神様の方でした。それで神様は、もう一度、人間と一緒に住むことができるようにと、最愛の御子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。キリストは、神様の御子であられますが、人となってくださり、私たち人間の代表として、私たちの身代りに、私たちの罪を背負って十字架にかけられ、私たちの罪に対する裁きを受けてくださいました。それで正義が満たされて、キリストを信じる者は誰でも罪赦され、神様と永遠に一緒に住むことができる神様の御国を受け継がせて頂けるという希望を与えられたのです。もちろん、今でも、イエス・キリストを信じた人の心には、神さまが来て下さって、いつもいっしょにいて下さいますが、しかしそれは最終形ではない。まだ完成した状態ではないわけです。私たちの肉体も、世界もまだ古いままです。そのすべてが変えられて、新しくされて、遠い昔に罪によって失われた神様と人とがともに住む、幸いな神様の御国を受け継がせて頂けるというのが、神さまが与えておられる究極の、最大の希望です。

2 私たちが受け継ぐもの:復活のからだ、神様の御国の諸側面、神様ご自身
この希望の内容について、もう少し詳しく見ていきたいと思います。
栄光の復活のからだ:まず、神様と永遠に一緒に住むために必要な、栄光の復活のからだが私たちに与えられます。キリストが十字架にかかられて、三日目に事実、復活されました。そのように、キリストを信じる私たちも事実、復活させられます。もちろんゾンビみたいな気持ち悪いのでなく、栄光の復活のからだと言われる命に満ち溢れたからだです。永遠のいのちにあずかるとか、永遠に神様とともに生きるようになるとか言っても、幽霊みたいなフワフワしたといいますか、とらえどころのないような状態ではなくて、栄光の復活のからだを与えられます。それは永遠を生きるのにふさわしい、完全なからだです。今のからだとは、まったく異なった性質のからだのようです。またそれは、永遠に生きていても疲れる事のない、生きていること自体が喜びであり、命に満ち溢れている状態なのでしょう。また肉体を持っていますから、いっしょに食事をすることができるし、兄弟姉妹たちといっしょに顔と顔とを合わせて話をすることもできるし、いっしょに笑う事もできるし、いっしょに握手したり、ハグしたりできる。今ある肉体はやがて朽ちても、いづれまったく別の、栄光の復活のからだを与えられて、その体をもって神様を礼拝し、神様に仕え、兄弟姉妹とともに交わりを喜ぶことができる。
土地:そして肉体を持っていますから、当然住む土地、また空間が必要です。将来、世の終わりに、神様の御国を受け継ぐという時、これもまた漠然とした、雲みたいなつかみどころのないものではなくて、自分の二本の足でしっかりと大地を踏みしめる事ができるのです。こういってもなかなか実感としてはわかないと思いますが、たとえば10年後に、どこでもいいですがどこか、東京のど真ん中でもいいですし、北海道とかでも外国でもいいですが、好きな所の土地を1000坪、いや1万坪、受け継ぐことが決まっていると想像してみてください。そのために必要な書類がすべて整っていて法的に有効な、確実な事としてあったとしたら、どうでしょう。今はまだ自分のものではないけれども、10年後にはその広大な土地を受け継ぐことが保証されている。そういう状況を想像してみると、少しは実感がわくかも知れません。そのように、リアルに私たちが自分の二本の足でしっかりと踏みしめる事ができる土地を受け継がせて頂いて、そこに神様と、愛する兄弟姉妹たちといっしょに永遠に住ませていただけるというのです。
正義:でも、いくら永遠に生きる体があり、広大な土地が与えられても、そこに不正があり、悪がはびこり、争いや暴虐があるようでは、悲しみ、嘆きが永遠に続くことでしょう。しかしやがて受け継がせて頂く御国は、正義が支配する新しい場所です(第二ペテロ3:13)。そこには不条理はいっさいなく、義が支配しますから、その結果、ゆるぎない平和が確立します。もちろん、私たち自身の心からも罪が消え去り、完全にきよめられて、罪とは無縁の状態にならせていただけます。ですから自分自身の心の醜さ、罪深さに悩むこともなくなります。良心に咎めを感じながらも、罪を犯してしまうということも、その時にはなくなりますから、精神衛生上もすこぶる健康になるでしょう。
神様ご自身:そして最後に、神様の御国は、神様ご自身が中心におられて、私たちとともに住んでくださるところです。この世界を造られた神様、全宇宙を造られた神様、そして私たちを愛して愛してやまない神様が、私たちとともに住んでくださる。それはどういう状態なのかというのは、ちょっと人間のちっぽけな頭では想像できないものだと思いますが、一つ、聖書に書いてあるのは、その時、「神様ご自身が私たちとともにおられて、私たちの目の涙をすっかりぬぐいとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3−4から自由引用)とあります。神さまが、涙をぬぐい取ってくださる、という時、物理的にハンカチか何かで涙をぬぐい取るという事ではなくて、その涙の原因となっている事そのものを取り除いてくださるということです。やせ我慢とかでなく、本心から、腹の底から納得して、慰めを受けて、神様をほめたたえるに至るということです。悲しみの涙、嘆きの涙、後悔の涙、、、。地上にある間、ずっとひっかかっていたこと、引き摺っていたこと。心の重荷となっていたこと。この世のどんなものをもってしても、癒される事のなかった傷。それらがすべてきれいさっぱり洗い流され、癒され、腹の底から笑える日が来る。自分の罪深さゆえにしてしまったことでさえも、神様は良い事のために許されたのだと知って、神様をほめたたえる事もあるでしょう。決して癒されることがないと思っていた傷も、その時には完全に癒される。人間にはできない事も、神様にはおできになるのです。そして、ほかならぬ神の御子ご自身が、私たちのために十字架に磔にされた傷跡を目の当たりにした時に、私たちの心は神様への感謝と賛美、感動で圧倒される事でしょう。

3 この希望を持って複眼的に生きる
最後に、この地上がすべてではないと覚える事は、私たちの人生に安定をもたらします。この地上だけでやりくりし、無理やりつじつまを合わせようとあせっても、うまくいかないでしょう。神様はそのようには、この世界をお造りになっておられない。
この神様の御国は、聖書のほかのところで「揺り動かされない御国」とも言われています(ヘブル12:28)。今年の3月頃、南太平洋の小さな島々からなるバヌアツ共和国というところが、史上最大級のサイクロンの直撃を受けたというニュースがありました。政府庁舎も倒壊、村も丸ごとすべて吹き飛ばされたと言います。たまたま国連防災世界会議のために仙台を訪れていたバヌアツの大統領が、「今まで築き上げてきたものが、一夜にしてすべて消え去った」と言っていました。4年前の東日本大震災の地震や津波でもすべてを流されてしまった方々も大勢おられます。阪神淡路の大地震、日本各地で次々と起こっている大雨による土砂崩れによる甚大な被害など、このところ自然災害が異常に頻発しています。それまで一生懸命築き上げてきた見えるもの、見えないもの、それに何より愛する人たちを一夜にして失う事は、どれほどの深い傷を残した事かと思います。しかし考えてみれば、そのような自然災害に限らず、世の中は不確かなものではないでしょうか。確かなもの、永遠に失われる事のないものというのはありません。罪が入ってからの世は、しがみつくべき場所ではないのです。揺り動かされることのない、永遠の神様の御国という希望をゴールとして持って、またそこに錨をおろして、地上での生活を整えていく時に、私たちの人生そのものも確かなものになっていくのではないでしょうか。
もちろんだからといって、この世の事をおろそかにするのではありません。やがて受け継がせて頂く神様の御国を望みつつ、神様とお会いするその時に、神様に良い報告ができるよう、神様に喜んでいただけるよう、今の時を精一杯神様のために活用する。すべてを知っていてくださる神様に「よくやった。よい忠実なしもべだ」とお褒めのお言葉を頂けるように、真をもって神様にお仕えし、また精一杯、実を結ばせて頂く。そうすることでますます、御国が慕わしくなることでしょう。そのような複眼的な世界観を教えていると思います。