一節をお読みします。 その後、私は見た。それは天にある開いた門である。すると、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
先に一章十節では、背後から聞こえた声が、今度は天からヨハネを招きます。「天にある開いた門」、象徴的です。門がすでに開かれています。門が開くのを見たのではありません。ヨハネを迎え入れるために、すでに開かれていたとも読めます。また、地上での信仰の生涯を全うしたすべての聖徒たちを迎え入れて来た故に、すでに門が開かれていたとも読めます。
「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう」と招かれているヨハネです。新しい光景、天の舞台へと招かれます。しかし、この四章では「必ず起こる事」の話題にはなりません。まず、ヨハネがその目で見るのは、二節、 たちまち、私はみ霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
と、一つの御座です。天にある御座。これが真っ先にヨハネの目を捕らえます。回りの光景から徐々に、というのではなく、いきなり御座の光景です。天に御座あり。地上の人間たちが全く知らずにおり、主にあって戦っている教会も忘れがちであるもの、それが天の御座でしょう。しかし、「ある」のです。しかも、空席ではなく、そこに着いておられるお方がおられる。黙示録は謎遊びの書物ではありません。戦いの中にある地上の教会を励まし、天の都に凱旋するまで、支え、助け導くためのものです。ヨハネに真先に「天の御座」を見せた主のみ心は何でしょう。
「天に御座あり」とは、「天にはすべてを支配されるお方がおります」ということです。当時の世界は、ローマ帝国が本腰を上げてキリスト教徒を迫害し始める時代です。地上の教会の様子は、2章と3章の7つの教会への手紙から良く分かります。エペソの教会は初めの愛を置き忘れてしまう程に偽の教えとの戦いの中にありました。スミルナの教会はサタンの会衆からののしられ、投獄され、と迫害の中です。ペルガモは「そこにはサタンの王座がある」と告げられる地で、信仰の戦いを強いられ、殉教者まで出しました。テアテラの教会は、偽の教え、不品行に偶像と格闘中といった具合です。教会の戦いは、まるでサタンの軍勢が一方的に勝ち進んでいるかのように見えます。地上に教会が立ち続け、生き残ることができるのだろうか、と心配にもなる。でも、天に御座がある。すべてをご支配なさっている方がそこにおられるのです。地上の教会が迫害の嵐の中に立ち続けられる保障は、まさに「天の御座にあり」です。地上には、カエザル・皇帝の王座があろうとも、天には、王の王、主の主、神の御座があるのです。ヘンデルのメサイアのインスピレーションは、この黙示録四章から得ていると言われています。天の御座。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう」との声に招かれて、その天の高みから地上の出来事と終末に至る歴史を見下ろす。ヨハネは、この神の御座の高みから、天の眺望をもって、地上を、サタンの荒れ狂う地上を、その終わりの日に至る経過を見るようにと招かれていたのです。
ところで、この場面のヨハネ、私たちの期待を裏切っていませんか。御座に着いておられるお方の姿を、「その方は碧玉や赤めのうのように見えて」としか、語らないのです。これだけなのです。もっとも自ら第三の天にまでも上ったと語るパウロでも、「神は、ただ一人死のない方であり、近づく事もできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たこともない、また見ることのできないお方です」(一テモテ六:十六)と語るのですから、これが人間の限界と弁えるべきなのでしょう。
もともと、栄光の主の輝きを人間のどんなことばで表現出来るでしょうか。「その方は、碧玉や赤めのうのように見える」と、宝石の輝きに喩えるのが精一杯で、これが人間のことばの限界というか、これが最高の表現であるということでしょう。ある注解者 は、
「宝石の輝きのただ中に、碧玉の威厳を含んだ白さの中に、ルビーの赤い微光の中に、淡青色の藍玉から濃い緑に至るまでの光を発することのできるエメラルドの明るい輝きの中に世界の王は、王座に着いておられる」と、解説します。
これらの宝石の色合いについては、碧玉の白い光は神の聖さと威厳を。赤い光のメノーは、炎のような輝き故に神の怒りを。緑玉のみどりの光は、「哀れみ」のしるしと言われるのですが、なるほどとも思います。
さらに、緑玉のように見える虹が御座を取り巻いています。虹です。ノアの虹が思い出されます。「もはや、大洪水が地を滅ぼすことはない」との約束の保障としての虹です。黙示録には、人類に下される様々な災いが描かれていますが、洪水のような形の水の災いはないのです。偶然ではないはずです。真実なるお方が、御座に着いておられ、全能の神が全地を支配なさっているのですから。
さて、御座のまわりに目を移すと、ヨハネの視野に入って来たのは四節、二十四人の長老の姿です。その金の冠を頭にかぶった長老たちの姿を確かめた途端にでしょう。「いなずまと声と雷鳴」 が起こる。五節、 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。7つのともしびが御座の前で燃えていた。神の7つの御霊である。
この「いなずま」が、御座のまわりの二十四人の長老の姿も、それまで見えていたすべてを一瞬にして真っ白な光の中にかき消すと同時に、耳をつんざくような声と雷鳴とで、天の御座はまたもとの光景をとりもどす、という具合でしょう。
光と音。動きのなかった天の御座の光景が突然に動き出す。そんな感じを受けませんか。でも、その動き始めた光景の中、目に留まるのは、7つの御霊です。それも、「ともしび」が燃えているのを見るのです。一章の四節でも「御座の前におられる7つの御霊から」とありました。今回は、その聖なるお方が「ともしび」、光を放つ、燃えているともしびとして描かれています。消えていては役に立ちませんが、燃えている、とわざわざ言われています。この7つの御霊なるお方が、実際にそのお働きを続けているということでしょう。殊更に、ともしびですから、その役割と言えば、光と熱を与えることです。でも、どちらかと言えば、熱より光です。そんなイメージで捕らえると、天の御座の前で燃え続けている御霊の光は、地上の私たちの心を照らし、心の闇を払い去り、冷えた心を暖め、その炎をもって汚れを聖め、新たにし、いのちの恵みを与えるもの、となりましょう。恵みと平安の祝福の源となる「御座の前にある七つの御霊」が、ともしびとして、赤々と燃えている光景は、黙示録ならではのものです。
続いて、ヨハネの目は、ともしびの立つ床に移ります。六節、
御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。
海のように広大な、果てしなく、深く広がる、水晶のように透き通った「床」というか、広がりを見ています。「海のようであった」とヨハネは言います。彼がいるパトモス島は、エーゲ海の小島です。その海はエメラルド・ブルーなんて言われますけど、そんな深い青さだったのでしょうか。先ほどの御座の光景と繋いでみると、この床の水晶に似たガラスの海のような広がりは、川面に映る花火が上空と水面とで観客を二倍楽しませてくれるように、御座の輝き、碧玉、赤めのう、緑玉の光を映し返して、御座のまわりの光景をいよいよ鮮やかなに見せていたでしょう。
それに、この海のような、どこまでも深く透き通る広がりは、汚れた人間にとって、まるで、その足を一歩踏み込むのも躊躇させるような神の聖さを現しているかのようです。教会堂をお作りになるときは、礼拝所の床は、ぜひ、このイメージで「ガラスの海のような青」にお作りになってはいかがですか。その足もとから、もう一度、御座に着く方へと目をやると、そこには、六節後半から八節、あの生き物を見たのです。その賛美を耳にします。
ヨハネは、「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた」と記し、その姿を「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった」と、別段、驚いた様子もなく、これを書き記しています。この奇怪な生き物の登場で、いよいよ黙示録らしくなって来ます。体中目だらけの生き物です。その正体は一体何か。私たちにはなじみがないとしても、聖書の世界では初顔ではありません。エゼキエル書一章四節から十二節に、同じような生き物がすでに登場しています。旧約聖書の読者にとっては、おなじみの生き物です。
この四つの生き物は、「しし、雄牛、人間、わし」そのものではなく、それぞれ、「ししのよう」、「雄牛のよう」というように言われています。この四つの生き物に喩えられているのは、動物の世界です。「ししは野の獣のうちで最強のもの、雄牛は家畜の中で最強のもの、わしは飛ぶ物の中で最強のもの、人間はすべて知恵ある者の中で最強のもの」とされてきました。ですから、この四つの生き物は、神によって造られた生物界の代表者たちです。つまり、御座のまわりにいるこの四つの生き物は、全被造物、特に命あるものの天における代表者であり、しかも、神に一番近く仕えていることから、特別な任務を与えられているみ使いたちのことと理解できます。彼らは、昼も夜も絶え間なく、御座に着いておられる神を「聖なるかな」とほめたたえているのです。八節、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。
造られた世界が、こぞって賛美すべきお方を「聖なるかな」の三重の頌栄をもって讃えているのです。御座にいますお方は聖いお方なのです。たとえ、地上がどんなに汚れ、罪がはびこり、悪が満ちようとも、なお、天には、全く聖いお方がおられる。地上の世界がサタンに支配されているかに見えても、天の御座には、「万物の支配者」なる「聖なる」お方がおられるのです。
この天上での御使いの賛美の歌声、いかがですか。「アーメン」と喜んで唱和しきれない方もおられることでしょう。さらにひねくれて、「地上は苦難に満ちているというのに、良い気なものだ」と、天上での「聖なるかな」との賛美を、よその世界の出来事と見て、そっぽを向く人もいるでしょう。
しかし、これらの四つの生き物には、体中に目がありました。それは、これらの生き物が、特別な見る力を持っていることを表わしていると見られます。ですから、決して、地上の苦悩が忘れられているわけではないのです。地上の教会の現状を忘れて、あるいは見ぬ振りをしての、「聖なるかな」の賛美ではない。全てを見届けた上で、「永遠の支配者」を誉め称えているのです。苦悩と悲惨に満ちた世界を「体中の目」で見届けた上で、なお神を誉め讃えているのです。誉め讃えることができるのです。このお方にこそ望みがあるからです。万物の支配者なのですから、聖なるお方なのですから。違いますか。御座に着いて、万物を支配される方は、サタンではなかったのです。悪魔ではなく、聖なる私たちの父なる神様なのです。
地上の聖徒たちの口が迫害によって閉ざされることがあろうとも、天では、昼も夜も「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方」との賛美が絶えることなど決してないのです。地上の聖徒たちを救い出し、永遠の命へと導くお方が御座に着いておられるのです。御座に着く方は、全世界が、敵対して立ち上がっても、御座から逃げ出されることは絶対にない。万物の支配者なのですから。そのお方が、私たちの父であるとなれば、大きな慰めと力と忍耐を読み取ることができましょう。苦難の中でこそ、「主よ、聖なる万物の支配者なる神よ。御名が讃えられますように」と祈れることが安心なのですし、望みなのです。苦悩の中で、この天の光景を思い起こせたら、そして、御使いの賛美に声を合わせることができたら、不安と恐れから、一気に解放されるのではありませんか。
それに、このお方が「後に来られる方 」と讃えられていることも、終末的な希望を確かに支える告白となっています。何時までの、永遠に、御座におられっぱなし、ではない。腰を上げて、地上の出来事に終止符を打たれる為に、お出でになるお方なのですから。
この誉め歌の意味を、九節は、「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき」、と、語ります。御使いの誉め歌は、神の栄光と誉れを讃えて、感謝の歌であったのです。御座に着いておられる方は、決して力のない、何もできない方ではない。ここで、感謝の誉め歌をヨハネは聞いているのです。地上の教会は苦難の中ですのに、一体、何を感謝の材料としているのでしょう。そんな、彼らの賛美に対する私たちの戸惑いを、二十四人の長老の捧げる賛美が、取り除き、あるべき神礼拝の姿へと導いてくれます。次の十節です。
二十四人の長老は御座に着いておられる方のみ前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と、誉れと、力とを受けるに、ふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
彼らは、二四が十二の二倍なので、十二部族と十二使徒のイメージに重ねて、新約と旧約の両時代の神の民、つまりこの二つの時代を通しての神の教会の代表役を担う天の御使いたちと理解されています。その全教会の代表と看做されるみ使いたちが、「王の王はあなたです」とばかりに、冠を投げ出して、ひれ伏し、「永遠に生きておられる方」を崇めるのです。冠を投げ出す動作は、特に自分たちの分際をよくよく弁えての行動と読めます。地上の人間も、天上の御使いも、ともに礼拝しなければならないお方は、唯一、このお方だけなのです。まして、地上の人間など、たとえ皇帝であろうとも、永遠に生きておられるお方に敵うはずもないのです。それでいて、神を名乗るとは、身の程知らずというか、最大の冒?です。
二十四人の長老の誉め歌は、まさに、このお方と私たちの違いを知り、弁えての賛美なのです。賛美すべき理由は後から、まずは頌栄です。「主よ。我らの神よ。あなたこそ、ふさわしい方です」と讃えます。この部分、原文ですと、「あなたこそ、ふさわしい方です」と始まります。これとまったく同じ言葉が、地上では、勝利を収めて凱旋する皇帝を迎えての歓呼の声として聞かれたものでした。「あなたこそ、ふさわしい方です。」 この大歓声の中、王座につくローマ皇帝の姿を讃えるのでした。しかも、その皇帝が、自らを神として、礼拝を強要していたのです。地上では、神ならぬものが神として崇められている。しかし、天上では、違うのです。
天上の礼拝は、唯一の御座に着いておられる、永遠の支配者に向けて、「あなたこそ、ふさわしい方です。栄光、誉れ、力を受けるのに・・」と誉め歌がささげられている。黙示録は、このような形で、礼拝すべきお方は、天の御座につきたもうお方、と指し示して、地上の民の目を天に向けさせているように思えます。
しかも、賛美すべき理由は、造り主であるから、なのです。「あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」との理由が続きます。
賛美すべき理由は「救い故」ではないのです。造り主である、ということで、それだけで、十分に、誉め称えられるべき栄光の主、神なのです。この世界が存在しているのもみ心ゆえ、なのです。玉座にふんぞり返っているローマ皇帝とて、このお方が「消え去れ」と命じられたら、この世界もろとも消え去る者でしかないのです。御使いたちが冠を投げ出した訳がこれです。自分たちが、み心によって造られ、存在している者と弁えているのです。このお方を誉めたたえるのに、造り主というだけで、もう十分過ぎる理由なのです。その栄光と、誉れと力とを、です。
なんか、救い主でないとなれば、誉めたたえる必要が感じられないとしたら、大間違いです。極端に言えば、と言うか、大胆に申し上げれば、救いとは係わりなく、十分に誉めたたえるべきお方が御座に着いておられるのです。造られ生かされているのが人間たち。神が造られた大宇宙の中に住む者とされている。それだけで十分に心躍らせ、感謝し、誉めたたえるべき栄光と力と知恵とに満ちたお方なのですから。
不遜にも、神を賛美する理由を人間は探します。救われたから、とか。恵みを頂いたから、とか。この自分が受けたもの、頂いたもので、賛美の理由を見つけて、「だから、ほめたたえよう」となる。でも、このちっぽけな人間である私たちに何かをして下さったから、と理由を探さなくても、もう十分すぎる理由があるのです。神は、永遠に生きておられるお方です。神は、聖なるお方です。神は、造り主なるお方です。神のみ心ゆえに、この世界は存在しているのです。神の知恵と力と栄光を誉めたたえるのに、何の不足がありましょうか。まして、救いまで頂いているのですから。
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