礼拝説教要旨(2015.08.16) 
キリストの平和が・・・
(コロサイ 3:1〜17)

 今年の8月は、またいつもとは違った思いで、6日、9日、そして15日を迎えたのではないか。とても複雑で、一言ではとても言い表せない、そんな思いの人も多いのでは・・・。日本の社会が、大きく変わりかねない状況を目にしているからである。(※知らない間に、随分と変わっているのかもしれないが・・・。)このような時、私たちは、生けるまことの神ご自身が、どのようにご覧になっているのか、神が善も悪も、全て正しく裁かれることを覚えて、物事を判断しなければならない。主なる神ご自身が、今日、私たちに何を語って下さるのか、そのような視点で、聖書の教えに耳を傾けてみたい。

1、今朝の聖書個所は、パウロが、キリストを信じて歩み始めた人々に勧める、信仰生活の実際についての教えである。ほとんどどの手紙においても、同じように語り、クリスチャンとなった一人一人が、本当に生まれ変わった者として生きるように、熱い思いで語り掛けているのが分かる。キリストにあって、変えられた者として生きるのか、それとも、以前と同じなのか、実は厳しい問い掛けである。過去との決別があって今があること、そのことを忘れているなら、思い出すようにと。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。・・・」(1〜2節以下)私たちを含め、多くの人の弱さは、地上のことに囚われ、救いに入れられた後も、なおこの世の富に惹かれ、肉の欲に対抗しきれないでいることである。パウロはその事実を知って、肉においては、すでに死んだ者であることを覚えるよう、そして、新しいいのちに生きる者とされている事実を覚えるようにと語る。「・・・あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(9〜10節)

2、キリストにある者たち、クリスチャンにとって大切なこと、それはキリストの十字架の死によって、自分の罪が贖われ、罪を赦され、新しいいのちに生かされていることを、どれだけ理解しているのか、どれだけ分って、今、しっかり生きているか、ということである。そのような自覚を促すように、パウロは言葉を続ける。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(12〜14節)キリストにある者たちは、すなわち御霊を注がれ、その御霊によって歩んでいる者は、御霊の実を結びつつ、着実に愛に生きる者と変えられ、整えられることを、神ご自身から期待されているのである。誰一人、自分でこれだけ変えられました・・・とは言えない。こんなにがんばっています・・・とも言えない。けれども、十字架を仰ぎ見るとともに、天を仰ぎ見て、上からの助けと導きを信頼する時、キリストにあって、私たちは前に進むことができるのである。罪の赦しをいただいた者として、赦された感謝と喜びに生きているかどうか・・・である。

3、パウロは、更に勧める。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。・・・」(15節以下)キリストの十字架によって罪の赦し受け、神との平和を確かに与えられた者として生きているかどうか、心に「キリストの平和」を宿す者として生きているのか・・・を問う。キリストにある者が、いつ、どのような所にあっても、神にあって平和を得ているかどうか、そのことが大事だからである。教会の交わりしかり、家庭や職場でのことしかりである。更には、地域や社会の人との関わりにおいても、キリストにある者たちが、心にしっかりと「キリストの平和」を宿しているか、それによって、その人の周りが大きく左右されるのである。パウロは、その次に「感謝」を勧める。「キリストのことば」をもって、互いに教えること、互いに戒めること、賛美することなど、ことばにも行いにも、すべてが神への感謝に至るように勧める。いずれも、キリストにある者が、新しいいのちに生きていることが大事で、御霊の実を結びつつ生きるようにとの教えである。(テサロニケ第一5:16-18)もし私たちが、御霊の実を結ぶことなく生きるなら、私たちの信仰は、空しいものでしかなくなるからである。(コリント第一13:1以下)

<結び> 8月に入る前から、猛暑日が続く中で、私たちは、全世界の人々にとっての大切な課題、「平和を願う思い」に関して、様々な観点から検証させられている。何をもって「平和」と言うのか、意外と定義は難しい。人と人とが、なかなか和らぐことができず、些細なことでぶつかり合い、国と国とは、利害を巡って、自ら進んで譲ることは、ほとんど見られないのが現実である。一方、私たちは、聖書の教えに聞き従いながら、「平和をつくる者」としての歩みを祈り求めているが、その歩みはもどかしい。厳しい現実を前にして、意気阻喪しそうである。だからこそ、私たち自身の心の中は、果たしてどのようであるか、改めて問うことの大事さを覚えたい。

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。・・・」神ご自身が、パウロの言葉をもって、私たちに語っておられる。罪の赦しをいただいた者として、神の前に、本当の意味での「平和」をいただいているのか、その「平和」を喜んでいるのか、周りの人々と和らぎ、喜びや感謝に溢れているのか・・・が、問われる。なぜなら、「キリストの平和」が私たちの心を支配していないまま、私たちが何かをしようとするなら、その先に何があるのか、それは明白だからである。悲しみや痛みが、また争いさえが待ち受けているに違いない。私たちは、御霊によって変えられ、整えられ、実を結びつつ歩むことを喜んでいるだろうか。私たちが、いよいよ主に似る者と変えれるためには、罪を赦された喜びや感謝が、私たちの心に溢れることが求められている。この世の様々な思いや考えに振り回されることなく、私たちは、「キリストの平和」が私たちの心を支配すること、キリストによって罪を赦された者がいただく「神との平和」を喜び、感謝に溢れる歩みが導かれるよう祈りたい。パウロは、どこの教会に宛てても、同じ思いを心を込めて語り伝えていた。それは生ける真の神ご自身が、私たちにも求めておられること、そのものなのである。