使徒たちに導かれ、目覚ましく成長していた、イエスをキリストと信じる弟子たちの群れは、人数が増すにつれて課題が浮き彫りとなり、それらを克服しながら、制度的に、また組織的に整えられていた。そのような状況の下で、執事として選ばれた一人、ステパノは特別な働きをしていた。「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」(8節)彼は上からの賜物をいただいて、不思議なわざとしるしも行っていた。それだけでなく、教えること、また考えることにおいて優れていたので、多くの人々との議論が盛んになっていた。「ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。」(9節)奴隷の身分から自由にされた人々の会堂に属する人の中で、ギリシャ語を使うユダヤ人たちを中心に、ステパノに反論しようとしたのであった。
1、初代教会の歩みが、第一幕から第二幕へと進む時、大きな課題となったのは、いわゆるユダヤ教的な信仰の理解から、どれだけイエスをキリストと信じる信仰へと、はっきり転換することができるか・・・であった。実際問題として、弟子たちは宮に集まって、共に礼拝をささげていた。そして、祭司たちも次々と信仰に導かれていた。そのような時に、宮で礼拝をささげることから決別する必要を、ステパノは気づき始めたのである。キリストの十字架と復活を中心とする福音は、エルサレムの神殿でささげられて来た礼拝から、全く新しい礼拝へと向かうこと、イエスの十字架は、旧約の律法を成就するもので、神殿での犠牲は、最早不要と説いたと考えられる。それで、ステパノとの対立が一層、激しくなっていたのである。「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」(10節)ステパノには、上からの助けと導きが、豊かに注がれていた。旧約聖書に通じていたのはもちろん、その聖書が教える「信仰」は、イエスをキリストと信じる信仰であることを理解していた。彼を言い負かすことは、ほとんど不可能であった。
2、反対者たちの常套手段は、結局、力任せの暴力であり、「神を冒涜した」ことを口実にして、ユダヤ人の指導者たちを動かし、ステパノを捕らえ、議会へと引き立てて行った。(11〜12節)この光景は、主イエスが捕えられて、裁判にかけられた時と重なっている。偽りの証人たちに、「「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」」と言わせた。(13〜14節)ユダヤ人の社会で、神を信じ、律法に従って歩もうとする人々にとって、イエスの十字架で律法の求めが満たされ、全く新しい歩みが始まるとは、とても考えられないことであった。けれどもステパノは、そのことに気づいて、はっきり語ったので、多くの人と対立したのである。議会の人々は当然のように怒り、憤りと驚きをもって彼を見つめた。しかし、ステパノ本人は冷静であった。その落ち着いた表情について、「すると彼の顔は御使いの顔のように見えた」と記されている。(12〜15節)
3、このステパノを巡る出来事の中に、初代教会が抱えていた課題が浮かび上がっている。キリストの教会は、どんなに素晴らしい祝福の中にあっても、課題があり、それらを受け止めながら、必要な対策や改善が成されて、歩み続けるということである。この時、一番の課題は、イエスをキリストと信じる者たちが、エルサレムの神殿で礼拝をささげ続けていたことであった。それは必然的であって、必ずしも間違いではないと言われる。それでも、ステパノが気づいたことは大切なことであった。主イエスが、エルサレムの神殿が崩される時の来ることを語っておられ、復活の日に、神殿の幕が真っ二つに裂けた事実を思い起こすなら、彼の気づきは尊いものである。ユダヤ教からの解放は必ず必要なことで、いろいろなしがらみから離れることが必要であった。そのことをステパノが説いたので、ユダヤ人からの反対が、指導者たちに止まらず、民衆の間でも広がったというのが、この時の真相である。以後、キリストの教会は、ユダヤ人の指導者たちからだけでなく、民衆との対決も迫られ、様々な緊張の中に置かれることになる。その激しい迫害の先頭に立つのがサウロであり、やがて弟子たちは、迫害を通して散らされることになって行くのである。
<結び> ステパノの気づきは、イエスをキリストと信じた弟子たちの間でも、いろいろな思いを呼び覚ましていたに違いなかった。エルサレムの神殿、宮に集うのに抵抗のない人々がいて、同時に、抵抗を感じる人々も増えていたと思われる。教会に連なる一人一人に、いろいろな考えがあり、それぞれの育った背景があって、全くの意見の一致をみるのは、容易いことではなかった。それでも、弟子たちの群れは、イエスの十字架と復活の証人として歩み続けることこそが、最重要な使命であった。主イエスが十字架で死なれたのは、イエスを救い主キリストと信じる人を、罪と悲惨から救うためであり、悔い改めて罪の赦しを得させるために、死からよみがえられたのである。弟子たちは、使徒たちの導きに従い、この福音を証しして歩み続けた。困難があり、意見の衝突もあり、でも、解決の道を探りながら前進するのである。上からの助けと導きは、そのような時に、必ず相応しい器を備えて下さることで明らかである。神ご自身が、「恵みと力に満ち」た人、ステパノを備え、彼に「知恵と御霊」を注いで、人々との議論に立ち向かえるよう支えておられた。
この8月、いろいろなことを思い巡らす時に、上からの「知恵と御霊によって」、大切な気づきを与えられたい。この国でキリストを信じる者として歩むためには、多くの点で「人に従うより、神に従うべきです」と、明確な態度と告白が求められる。私たちの教会の歩みにおいても、主の導きと支えのあることを信じて、これからも歩み続けることを導かれたい。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を、誤りなく宣べ伝えることができるように。また、この福音に生きることが、私たちを含め、世の全ての人にとって、決して見失ってはならないことであると信じて・・・。キリストの福音を信じて、その福音を証しして生きることが、最大にして、最高の務めであることを心に刻みたい。上からの知恵と御霊をいただき、何を信じ、何を語るのかを導かれながら、キリストの福音を宣べ伝える者、証しする者とならせていただきたい。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(コリント第一1:18)
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