ペンテコステの日以降、イエスをキリストと信じて従う弟子たちの歩みは目覚ましく、驚くほどの勢いで成長していた。弟子として加えられた人々をまとめ、彼らを導くのは、使徒たちの大切な役目であった。しかし、人数が増すにつれ、キリストの教会として、制度的に、また組織的に整えられる必要が生じていた。使徒の働きは、5章までが第一幕とすると、6章以下は第二幕、新しい段階へと発展して行くことになる。紀元第一世紀の教会は、エルサレムから、やがてユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てにまで、主イエスの復活の証人となるのである。
1、この初代教会の歩みは、何もかも順調であったかというと、決してそうではなかった。いろいろな難題に直面し、それを克服しながらの歩みである。アナニヤとサッピラが裁かれた出来事に続いて、6章1節以下の課題が降りかかっていた。互いに助け合い、支え合う、大きな祝福の中にある群れに、新たな難題が浮かび上がった。教会の大切な働きである、助け合うことをめぐってであって、楽観はできなかった。「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」(1節)当時、エルサレムに住んでいるユダヤ人は、地元で生まれた人々の他に、外国で生まれ、ギリシャ語で育った人々がエルサレムに戻って住んでいた。そのどちらの人々の中からも、イエスをキリストと信じる人が起こされ、全員で助け合いながら生活し、教会を建て上げる役割を担っていた。帰還した人々ほど、その生活基盤が弱かったり、地元のユダヤ人の方が力を持っていたのが現実であった。教会に中でも、へブル語を使うユダヤ人が中心的に働いていたり、日々の配給の不満が、この時、吹き出すことになったと考えられている。
2、言語が違い、生活習慣も違う人々が、同じ信仰によって支え合いながら歩めるのは、驚くべきことである。また具体的に、やもめたちを支えるのは教会の大切な務めの一つであった。ところが、その毎日の配給について、公平さに欠けると訴えがなされたのである。使徒たちは早速、問題解決を探るため、全員を集めて提案をした。群れの全員なのか、それとも代表を集めたのか・・・?。提案の中身、肝心なことは、使徒たちの果たすべき務めを明確にしつつ、配給のために働く人、「食卓のことに仕える」人を、早急に選ぼうとしたことである。使徒たちの務めは、「神のことば」を伝えることであり、その働きを優先するために、配給のために仕える人を選び、働きを分担することにした。「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。」(2〜4節)ただ分担するだけでなく、新しく選ばれる人の条件として、やはり「御霊」に満ちた人、「知恵」に満ちた人、そして「評判の良い人たち」を示して、誰を選ぶか、一人一人がよく考え、また祈りを込めて選出にあたるように勧めた。イエスを信じて救いに与った者はみな、すでに聖霊に満たされているとしても、その実を結んでいるのか、良い証しを立てているのかを、選ぶ時の基準として示していた。けれども、これは、全ての者が、どのように生きているのかを問うものである。自分を問いながら、相応しい人を選ぶことである。自分はどうであるかを、いつも問いながら生きることが大事となる。
3、このようにして七人が選ばれた。(5〜6節)彼らは、「信仰と聖霊とに満ちた人」たちであり、彼らが「執事職」のはじまりである。使徒たちが「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励む」のに対して、執事は、「食卓のことに仕える」ために働き始めた。彼らは、慈善的な働きや実際的な務めを担い、教会の制度的な、また組織的な側面を支えるために用いられるようになって行った。但し、最初の七人の中には、ステパノとピリポのように、使徒たちに匹敵るほど、祈りとみことばの奉仕に当たる者がいた。この二人は、執事としての働きに留まらず、上からの知恵と力を注がれ、主ご自身によって尊く用いられている。この二人、そして他の五人とも、その名前から、彼らが「ギリシャ語を使うユダヤ人」であることが分かる。エルサレム教会の一同は、問題解決のため、自分たちが不当に扱われているのではないか・・・と、心を痛めた人々に対して、でき得る限りの配慮をしたようである。会衆が選び、使徒たちが祈って手を置く任職の仕方は、私たちの教会の信徒総会での選挙と、任職式の基である。選挙の上に、聖霊なる主の導きを期待し、主が与えて下さった答えを感謝して受け止め、みこころに従って、教会は前進するのである。
<結び> 「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」(7節)難問、難題を克服して、教会は前進し、成長していたが、ここの記述には、「多くの祭司たちが次々に・・・」とある。ユダヤ教からの回心という事実があったが、どれほど明確なものであったかは、不明な部分がある。以後の教会の中に、律法からどれだけ自由になるのか・・・など、ユダヤ教的な要素が残ることに関連があると思われる。しかし、祭司たちもまた、イエスをキリストと信じる信仰へと、その生き方を変えることが導かれていたのは、確かな事実であった。※明確な回心の尊さ!
私たちの教会は、今、どのように歩んでいるのか、私たち一人一人は、どのように歩んでいるのかを、自分に問うてみたい。私たちの教会の交わりは、果たして、神のみことばを宣べ伝えることにおいて、よくその務めを果たせているだろうか。牧師と長老により小会の役割が担われ、執事が立てられ、役割の分担がなされているが、イエス・キリストの復活を証しすることにおいて、忠実であるかを問われると、十分とか、完全とは決して言えない。いつも不完全ながら、主のあわれみによって、この務めを果たさせていただいていることを、ただ感謝するのみである。「ふつつかな者ですが、なお、主のために仕えさせて下さい」と。執事職のはじまりを、しっかりと心に刻みながら、私たちの教会の歩みを、主の委ねて歩ませていただきたい。一人一人が、「御霊と知恵に満ちた」人とされ、また主の証し人として、「評判の良い人」とされて歩めるよう祈りたい。私たちが、主によって変えられ、整えられることは、とても大事なことと思うからである。
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