礼拝説教要旨(2015.07.26) 
もし神から出たものならば
(使徒の働き 5:33〜42)

 使徒たちの確信は、「人に従うより、神に従うべきです」と明確であった。その態度、その言い分を聞いて、ユダヤ人の議会の面々は怒り狂い、使徒たちを殺そうと計るほどに、騒然となった。その怒り狂った議会の中にあって、事態を冷静に見守り、一同を説得する人物が現れた。「ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。」(33〜34節)ユダヤ人の民の指導者たちの全員が、使徒たちに反発しているような時にも、事の真実を見分けよう、公平に判断しようとする人が、議会の中に残されていた。

1、ユダヤ人の議会は、大祭司や祭司長たちを占めるサドカイ人が多数派であり、彼らこそが、はらわたが煮えくり返るくらいに「怒り狂い」、使徒たちを殺してしまいたいと、いきり立っていた。それに対して、少数派のパリサイ人たちは、幾らか冷静であった。「律法学者」「パリサイ人」と聞くと、たちまち、主イエスと激しく対立していた「律法主義者」たちと思いがちである。けれども、律法学者やパリサイ人は、議会の中で少数派ながらも、律法の求めには忠実に従おうとしていたので、人々からは尊敬され、社会に対する影響力は大きく、サドカイ人は、地位や名誉を求める傾向があり、人々からの評判は、芳しくないのも事実であった。そのような背景の中で、ガマリエルは立ち上がっていた。今ここで、判断を誤ることはできない。どんな時にも、我々は神を恐れる者として、正しく物事を見分けなければならない。神に敵対する者となることは避けねばならない・・・と。彼は、使徒たちについて、その一連の行いが、人からのものか、それとも神からのものかを、しばらく見極めたいと考えたのである。(35〜39節)

2、ガマリエルは、「ラビ(私の先生)」の中でも、尊敬を込めて「ラバン(私たちの先生)」と呼ばれていたと言われ、その弟子の一人が、タルソ出身のサウロ、後のパウロである。律法を厳格に守ることを弟子たちに教え、自らも神に対して熱心であろうとし、その生き方を貫くためには、使徒たちを、ただ怒りにまかせて退けることはできないと考えた。少し前、「チウダ」という人物が反乱を起こしたものの鎮圧されたことを、また「ガリラヤ人ユダ」の反乱も、しばらくして自滅したことを例に上げ、使徒たちのことも、どうなるのかを見届けよう・・・と説得した。「あの人たちから手を引き、放っておきなさい」とまで言った。彼は、知らずして、神に敵対するのを恐れたからである。「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」使徒たちの行動が、もし神から出たものならば、その行動を止めることはできないと考えた。

3、怒り狂った議会であったが、ガマリエルの説得に従うことになった。神を信じることにおいて、的外れな部分があったが、仲間から「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」と言われ、しぶしぶ怒りを静めないわけに行かなかった。使徒たちには、むち打ちをもって痛みを加え、例によって「イエスの名によって語ってはならない」と言い渡すだけで、結局、彼らを釈放した。それ以上、何も手を下せなかった。この時、使徒たちが気づいたのは、神の御手の守りの確かさであった。捕えられ、牢に入れられても、そこから連れ出されていた。また捕えられ、議会で尋問されても、彼らは「人に従うより、神に従うべきです」と、迷わずに答えることができた。すると議会の中に、神を恐れて、神に従おうとする人物が現れ、議会を説得し、その主張が受け入れられた。自分たちが辱められ、苦しみを受けるのは、何のためなのか。それは主イエスを信じているからであって、主イエスの十字架と復活を証しするからに他ならないと、今更ながらはっきりと分かってきた。「・・・そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」(40〜42節)

<結び> 「もし神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう。」こう言った時、ガマリエル自身に、使徒たちの行動が神から出たものとの確信があったとは思えない。彼は、ちょっと冷静に考えようと、皆を説得していた。けれども、この出来事を記したルカは、使徒たちの行動と教会の歩みの全ては、神から出たものという意味を込めていた。人から出たものは、いずれ自滅するのに対して、神から出たものならば、それは決して自滅することはない。人によって滅ばされることなど有り得ない、と伝えようとしていた。事実、キリストの教会は、その時以来、今日まで、全世界に広がっている。週の初めの日に、主の日として、主イエスの復活を記念して、公の礼拝をささげ続けている事実、この確かな事実を、私たちはもっともっと心に留めたい。復活された主イエスが、私たちの礼拝にも、霊的に臨在されている。そのような礼拝が、およそ二千年に渡って、全世界でささげられている。「神から出たものならば」こそ、この現実が続いているのである。

 もちろん、この世では、神からのものと、人からのものが、残念ながら混在している事実を認めなければならない。実に多種多様な宗教が入り乱れ、人々は右往左往している。私たちは、心の目を開き、また心の耳を開いて、見分け、聞き分けなければならない。一体どうして、そんな教えに惹かれるのか・・・と、戸惑うことが多い。自滅せずに続くのはなぜなのか・・・とも。私たち自身が、人からのものなのか、それとも神からのものなのかを、しっかり見分け、聞き分けなければならないことになる。聖書が教えていることを、今一度、しっかり受け留めることが大事である。聖書を通して、イエス・キリストについて語られていること、教えられていることを読み取り、聞き分けることができるように。教会に集い、礼拝に連なっている事実は、神によって、イエスをキリストと信じるよう招かれていることである。今朝ここにいる全ての者が、イエスがキリストであることを、心から信じることができるように。キリストを信じて、たましいの救いをいただき、心に平安を得て生きることができるようにと、心から祈りたい。(ヨハネ20:31、テモテ第一1:15、2:4-6)