神のことばを大胆に語り、目覚ましい成長を遂げていた教会であったが、一同が、非常な恐れに包まれる経験をしていた。喜びと感謝をもってささげるはずの献金をめぐって、人の目は欺けても、神の目に全ては露わで、決して欺けないことを思い知らされたからである。けれども、痛みを経験しながら、教会は力強く前進していた。ユダヤ人の指導者たちはそれを妬ましく思い、再び使徒たちを捕らえ、その勢いを止めようとした。今度はペテロとヨハネだけでなく、十二使徒たちの大半を捕え、何としても使徒たちの働きを止めさせたいと、必死であった。(17〜18節)
1、ところが、事態は、誰も考えなかったこと、予想もできなかったことへと進んで行った。主なる神が、直接の介入をされたからである。「夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい』と言った。」(19〜20節)御使いが牢の戸を開いて、使徒たちを解放し、そして、宮の中に立って、いのちのことばを、ことごとく語れ!語り続けよ!!と命じたのである。神ご自身は、彼らが捕えられ、イエスの十字架と復活の証しが語られなくなるのを、断じて良しとはされなかった。使徒たちをはじめ、教会に連なる弟子たちをみな、イエスの復活の証人として世に送り出された神は、この時、人の手による妨げに対し、断固として、それを退けようとされた。使徒たちは、すぐさま、主の導きと守りに従い、「夜明けごろ宮に入って教え始めた。」何も知らないユダヤ人の指導者たちは、議会を招集し、使徒たちを問い詰めようとしていた。けれども、使徒たちが既に獄舎から出て、宮で人々に教えているのに気づくのは、時間の問題であった。(21〜22節)
2、完全に閉まっていた獄舎から、一体どうやって使徒たちが外に出られたのか、宮の守衛長や役人たちには、全くのなぞだらけであった。誰もいないという驚きは、すぐ、彼らが宮で教えている・・・との報告によって、事の重大さを思い知らされることになった。(23〜25節)何が起こったのかの真相はつかめないまま、もう一度使徒たちを捕まえ、議会へと連れて来たが、人々を恐れ、手荒なことは控えざるを得なかった。民の指導者たちの怒りは大きかった。憎しみや妬みは、今にもはち切れそうであった。でも、思うようには行かずに、手を焼いていた・・・というのが真相であろう。(26〜28節)「『あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。』」彼らは、イエスの十字架の理不尽さを、少し自覚し始めている。なぜなら、イエスの亡骸を人々に見せることはできず、よみがえりを否定するすべがなかったからである。イエスを処刑した事実は消し去れないまま、イエスの復活を説かれるのに、彼らは対抗できず、苛立ちばかりが増していた。
3、「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。・・・』」(29〜32節)ペテロを代表とした使徒たちは、いたって冷静である。生ける真の神のみを恐れ、この神にのみ従う信仰に生きることに、彼らは全く迷うことはなかった。イエスの十字架の死と、死からのよみがえり、この確かな事実によって、神は「イスラエルに悔い改めと罪の赦し」を与えようとしておられると、ハッキリ語った。よみがえったイエスこそ救い主であり、今、生きておられる・・・と。使徒たちはみな、自分たち一人一人が、十字架と復活の証人とされているとの、明確な自覚を持って、議会の中で証言していた。彼らの確信や勇気は、彼ら自身からのものではなかった。聖霊の満たしと導きがあって、彼らは「人に従うより、神に従うべきです」と、答えることができたのである。彼らは、神ご自身からの、はっきりとした力づけをいただいていた。留置場からの解放があり、「いのちのことばを、ことごとく語りなさい」との命令を受け、反対者も手荒なことはしなかったことなど、神に従うことの確かさを経験していた。その積み重ねによって、彼らの信仰は、一層堅くされて行ったのである。
<結び> この出来事において、私たち読者の驚きは、神の直接介入の事実である。留置された使徒たちに、主の使いを送って、「牢の戸を開き、彼らを連れ出し」たことである。いざとなると、また肝心な時には、神はご自身の民のために手を差し伸べ、人による妨げを根底から覆されるということである。それは何のためか。「いのちのことば」を語らせるためにである。「いのちのことば」とは、「救いのことば」を意味している。イエスの十字架の出来事、また復活の出来事によって、神が人に救いを与えて下さるというメッセージを語ること、それが「いのちのことば」を語ることである。(使徒4:4-5、8:35、9:20-22、10:36-43、13:26-39)神は使徒たちに、その務めを果たさせようと、ユダヤ人たちの妨げを断固として退けられたのである。言い換えれば、教会が「いのちのことば」を語り続けるために、神は、いつでも、どこにあっても、確かな守りを与えて下さるのである。(使徒12:1-11、18:9-11)
今日の私たちの教会は、何をするのか、何を宣べ伝えているのかが問われている。私たちは、確かに生きてはいる。けれども、現代ほど、人が本当の意味で生きているのかどうか、多く人が悩み、また苦しみ、答えを見失っている時代はないと思われる。物理的ないのちをただ生きているだけで、神によって造られた人間として、本来のいのちを生きていると、心から言える人は少ないままである。主イエスを救い主と信じる私たちは、「神にあって、幸いな日々を歩ませていただいています」と、心からの証言をすることが求められている。そして、「いのちのことば」を語り続ける使命が、私たちの教会にも与えられていることを自覚したい。もし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることが妨げられる時が来ても、神の守りと助けは万全であると信じて歩みたい。事実、教会は、ありとあらゆる妨げや迫害を経て、今日に至っているからである。
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