礼拝説教要旨(2015.07.12) 
主を恐れて前進する教会
(使徒の働き 5:1〜16)

 聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語っていた教会は、目覚ましい成長を遂げていた。一同は、心と思いを一つにして、互いの必要を支え合うまでして、豊かな交わりを形成していた。その教会の姿について、「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがすべての者の上にあった」と記されていた。(4:33)そのような順風満帆の中で、初めて大きな痛みを経験することになった。それが5章1節からの出来事である。

1、エルサレムの教会、主イエスをキリストと信じて歩み始めた人々は、互いに愛し合い、支え合いして、周りの人々にも注目される交わりを築いていた。地所や家を売って、その代金をささげる人がいて、それによって互いの必要を満たし合うことまでしていた。一人一人が、主イエスの復活を証しするために、それぞれが自分の役割を喜んで果たしていた。けれども、そこには、人間が誰しもかかえている弱さが潜んでいた。早速のように、献金をめぐって、神の裁きが下された。アナニヤとサッピラという夫婦が、自分たちがささげる尊い献金に関して、心を偽る罪を犯したからである。(1〜2節)彼らは、自分の持ち物を売ってささげる時、その代金の一部を残しながら、全額をささげたかのように振る舞っていた。その事実が、ペテロの耳に入ることになり、アナニヤに問い質すことになった。(3〜4節)どれだけささげるのか、その金額を決めるのは、一人一人に任されていた。ところが、偽ってしまったのは、サタンに心を奪われたからであり、人ではなく、神を欺いたことと、ペテロは厳しく責めた。するとアナニヤはたちまちの内に倒れ、息が絶えてしまった。全く自由にささげることができたにも拘らず、偽ってしまったことが、神に対しての罪、欺きとなったのである。その場にいた者はもちろん、また「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」(5〜6節)一同は大きな衝撃を受け、神を恐れる思いを新たにさせられずにはいられなかった。

2、この出来事の第二幕は、三時間ほどたって、妻サッピラがやって来た時のことである。彼女は何も知らないまま、「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい」と問われ、「はい。その値段です」と答えた。そして、彼女も神の前で、事実を捻じ曲げ、心を偽り、神に打たれることになった。結局、二人は倒れて息が絶え、人々に運び出されて葬られた。(7〜10節)生ける神、主の前にあって、私たち人間の心が、全く見通されている事実が明らかとなった。「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」(11節)アナニヤが打たれたことで恐れを抱いた人々が、その妻サッピラのことで、一層恐れに包まれたに違いなかった。教会全体が、神である主を恐れることにおいて、真剣にならないわけにいかなかった。人を欺くことはできても、神を欺くことは決してできないと。また人がどんなに心を合わせても、主の御霊を試みることは決してできないと。私たち人間の心の内側を、神は必ず見ておられる。この神、主を恐れることを何よりも大事にすることが、私たちにとっても最優先すべきことである。

3、主を恐れること、生ける真の神を心の底から信じて、この神に従うことを第一として生きること、そのことがエルサレムの教会に連なる人々の間に、いよいよ定着し、教会の歩みは一層目覚ましくなって行った。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。」宮の中でも、ますます目立つようなっていたと思われる。けれども、その勢いに圧倒される人もいたのか、尊敬はしても、交わりに加わるかどうか、警戒する人々もいたようである。それでも、主イエスを信じる人々は増え続けていた。(12〜14節)遂には、病人を癒してもらおうと、次々と大通りに運びだし、また、付近の町々から、助けを求める人々がエルサレムへと連れて来られ、「その全部がいやされた」のであった。(15〜16節)教会が前進するその姿は、多くの人々にとっての希望であり、喜びや勇気の源となっていた。主イエスご自身が、ペンテコステ以降の教会に聖霊を注ぎ、教会に力を与え、実際に不思議やしるしを行わせて、その歩みを確実なものとされていたからである。今日の私たちの教会の歩みも、同じ主イエスの御手に支えられている。全く同じように・・・ではないが、確かに聖霊に満たされて歩むことが、どんなに小さなことにも及んでいることを覚えたい。主を恐れて、また主に信頼して、私たちも歩み続けたいと思う。

<結び> アナニヤとサッピラの夫婦が、神に打たれて息が絶えたというこの出来事は、教会全体に非常な恐れを生じさせていた。心温まる教会の交わりが人々の好感を得ていた時に、同時に、恐怖とも言える恐れを呼び覚ましたからである。けれども、主イエスをキリストと信じる人々にとっては、神が確かに生きておられ、働いておられることを実感する、貴重な経験となった。神が、私たち人間の全てを見ておられ、思うこと、行うこと、全てお見通しであることを知ることになった。その理解は、私たち人間にとって、何ものにも増して尊いものである。神は私たちの心を見ておられる、知っておられる。

 私たち人間は、最初の人アダムが堕落して以来、神はいない!を当然とし、神とは全く無関係で生きられると、そのことを公言してはばからない。神を信じるなんて愚か者のすることとまで・・・。ところが、聖書はその反対を指摘する。「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。」(詩篇14:1)また、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)私たちにとって大事なこと、それは、神の前に私たちの心の中が露わであるなら、果たして、私たちは顔を上げることができるのか、そのことを本気で考えなければならないことである。神に背いている罪、その罪ゆえにあらゆる悪や醜さから、決して逃れえない私たちである。私たちはその罪を認め、イエスを救い主、キリストと信じるのである。神が私たち人間の罪を赦すために、イエスを十字架につけ、罪の代価を支払われたことを。その主イエスはよみがえって、今も生きておられる。主は今日も生きて働いておられる。主を恐れて、私たちの教会も前進させていただきたいと、心から祈りたい。