ユダヤ人の指導者たちから脅され、「いっさいイエスの名によって語ったり教えてはならない」と命じられたペテロとヨハネであったが、仲間たちのところに戻り、みんなで「心を一つにして」神に祈った。「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らにとっての一番大切なこと、それは「神に従う」ことであり、人を恐れず、「みことばを大胆に語る」こととの確信は揺るがなかった。
1、十字架で死なれたイエスこそ、神が旧約聖書で預言されたメシヤ(キリスト)であり、十字架の死からのよみがえりで、いよいよ預言の確かさが明らかにされていた。語るべき「みことば」の中身は、イエス・キリストの「十字架と復活」である。十字架で死なれたイエスを信じること、イエスを救い主キリストと信じて神の前に立ち返ること、この教えを、ペテロを先頭に、使徒たちばかりでなく、弟子たち一同、ペンテコステ以後の教会は、聖霊に満たされ、大胆に語っていた。真実に心を動かされたのは、神の前に心を探られ、神への背きの罪を認めた人々であった。神が本当に生きておられること、神が人間の心の内側をご覧になっていること、そのことに気づく人々が、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物としての聖霊を受けるでしょう」との勧めに、心から応答していた。信じた者の群れは、驚くほどの勢いで増えていた。彼らは、神の前に立ち返ったことを喜び、罪を赦された平安を得ていた。そして、同じ喜びの中にある者たちで、互いに愛し合い、支え合うようにして、教会の交わりを築き上げようとしていた。(32節)
2、ペンテコステ以降の教会が、「共同体」として「みないっしょにいて、いっさいの物を共有していた」ことや、また「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」ことは、その時点で、必要不可欠な事柄であった。イエス・キリストを信じて仲間に加わった人々の、生活の実態に対して、教会は、その必要に応えることが求められたからである。使徒たち自身の多くが、ガリラヤ出身であり、エルサレムに自分の家はないはずであったことも、共同生活を自然なものとしたに違いない。エルサレムには、ペンテコステの日に集まっていた二階の広間があり、その家の持ち主が、そこを自由に使わせてくれるなど、やや裕福な仲間がいたのも事実である。そのような人々が、「心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」のは、ひとえに、イエスの十字架と復活を宣べ伝えるためであった。彼らは、その大切な使命を担ったからこそ、自分のことは後にして、群れの一致を最優先することができた。そのようにして、「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」(33節)教会は、「イエスの復活」を証しするためにこそ、聖霊によって、世に送り出されているのである。
3、一同は、イエスの復活を証しする使命を、迷いなく、また明確に理解していたものと思われる。その証しは、「非常に力強く」なされ、その証しを良しとされた主が、彼らに「大きな恵み」注いでおられた。一番大切な使命を果たすために、心を合わせていた教会では、その働きを進める上での現実的な必要を満たすため、喜んで献金していた事実も明らかにされている。教会には、裕福な者とそうでない者がいるのが現実である。エルサレム教会の実情は、新たに群れに加わった人々の多くが、どちらかと言えば貧しい人々であったと考えられている。そのような事情を抱えながら、「地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その代金は必要に応じておのおのに分け与えられた」ので、群れの中には、「ひとりも乏しい者がなかった」と記されている。(34〜35節)イエスの復活を証しするのが教会の使命として、はっきり自覚していたからできたことである。一人一人が、自分のできることを喜んで果たすことによって、全体の一致と交わりは、いよいよ豊かなものとされる。「大きな恵みがそのすべての者の上にあった」とは、そのような祝福された教会の姿を物語るものである。
<結び> そのエルサレム教会で、率先してささげていた一人がバルナバ(慰めの子)と呼ばれたヨセフであった。キプロス生まれのレビ人であったが、イエスをキリストと信じる者となり、弟子たちの仲間になって、もっぱら献金することによって教会を支えようとしていた。誰にでも、心優しく接する賜物が与えられていて、それで「バルナバ」と呼ばれたのであろう。彼は後に、パウロの良き理解者となり、同労者として仕えている。イエスの十字架と復活の出来事を宣べ伝えるためには、心を合わせて祈ること、ささげること、共に労すること等々、多くの働きが必要とされていた。みんなが同じ働きをするのではなく、それぞれが、自分に与えられたものをしっかりと受け止め、自分にできることを喜んで果たすことが、何よりも尊いことである。イエスの復活を力強く証しするためにこそ、心を合わせて祈ること、ささげることが、私たちにも求められている。初代の教会においては、きっと献金をささげるばかりの人がいて、その献金によって、助けられるばかりの人がいたとも考えられる。生活の一切が、生ける真の神に依り頼むものとなっているのか、そのような信仰が試されながら、キリストの教会は前進していたのである。私たちの教会の歩みも、また一人一人の日々の生活も、十字架の死からよみがえられた主イエスを心から信じて、復活された主イエスをキリストと証しすることが導かれるよう祈りたい。私たち一人一人、「主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」という経験を、是非ともさせたいただきたいと思う。(※ルカ21:1-4、ローマ12:3-8)
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