一晩留置され、翌日、議会に引き出されたペテロとヨハネは、恐れなく、大胆に証言した。病人がいやされた良いわざは、十字架の死からよみがえった方、イエス・キリストの御名によると、力強く語った。ユダヤ人の指導者たちは、二人を罰するすべを見出せず、結局は、おどすことしかできずに釈放した。釈放された二人は、早速、仲間のところに行って、事の次第を報告した。聖霊が語る言葉を与えて下さったこと、そして、生ける神の御手の守りの確かさを、感謝を込めて語ったに違いなかった。(23節)
1、一同は、二人が無事戻ったことを喜び、また二人の話を聞いて、神が生きて働いておられることを確信することができた。「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。『主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。・・・』」(24〜28節)旧約聖書で語られている通りに事が成り、異邦人とイスラエルの民が、いっしょになって主イエスを退けた事実を振り返りながら、その反逆と脅かしが、遂に自分たちに及んでいることを認め、心を込めて祈りの声を上げた。彼らは、天と地を造られた神、力に満ちておられる真の神に祈った。「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。』」と。更に、「『御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください』」と祈った。彼ら自身が何かをするのではなく、神ご自身が生きて働いて下さることを、一層祈り求めたのである。(29〜30節)
2、彼らの祈りは、神への賛美とともに願いが込められ、皆で声を上げていたので、集まっていた部屋に響き渡ったのであろう。「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(31節)祈りを聞かれた神ご自身が、今一度、ペンテコステの日の出来事を思い出す経験を弟子たちにさせて下さった。彼らを、聖霊に満たし、神のことばを大胆に語らせておられる。彼らは、神が聖霊を通して、語らせて下さるという、自分たちの力以上を経験していた。先に告げられていたこと、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(1:8)との約束が、確かに実現しているのが分かり、また、主イエスが教えて下さった言葉の意味が、旧約聖書から一貫していることも分かり、聖書が教えるのは、イエス・キリストによる罪の赦し、これこそが宣べ伝えるべき「神のことば」と、いよいよ確信するようになっていた。(ルカ24:44-49)どんなに脅されても、どんなに禁じられても、人を恐れることなく、「神に聞き従う」ことを選び取りたいと、一同で心を込めて祈っていたからである。
3、私たちは、ペテロとヨハネだけでなく、他の弟子たちのことも含めて、よみがえった主イエスにお会いする前と後の、弟子たちの変貌ぶりに驚かされる。ペテロの姿は、極端である。十字架の前には、他の弟子たちが裏切ろうと、自分は死にまでついて行くと、豪語していたにも拘らず、その数時間後には、身の危険を感じて、「私はあの人を知りません」と、イエスとは無関係を言い張っていた。そのペテロが、再び、「イエスを主、キリスト」と証言する者となるのに、一体何があったのか。その何かこそ、聖書の教えを理解する、大切なカギである。十字架の死からよみがえられた主イエスは、シモン・ペテロには、特別な配慮をされたようである。大失態をさらした事実があり、その彼が再び仲間の信頼を得るのは、易しくはなかったはずである。主は、以前のままのペテロではなく、弱さや愚かさを身に染みて分かる者として立ち上がるように予め教え、復活後にも、ペテロには直接お姿を現し、また特別に教えを与えておられたのである。(※ルカ22:31-34、24:34、ヨハネ21:15-22)その上で、弟子たち一同に聖霊を注ぎ、力を与え、彼ら自身が想像もできなかった勇気と知恵、そして語る言葉を与え、彼らを証人として用いようとされた。一世紀のキリスト教会は、全く不思議な力に支えられて歩んでいた。今日の教会も、同じように、聖霊に満たされ、主に用いられる時、神のことばを大胆に語って歩めることを、しっかり心に刻みたい。
<結び> 「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」この祈りは、いつの時代、どこの国であっても、イエス・キリストの福音を宣べ伝える教会にとって、絶えず祈り続けるべき祈りである。キリストの十字架と復活を伝えつつ、偽りの福音は、早くも、新約聖書の時代において登場していた。驚くばかりの事実である。以後、二千年に渡り、教会は偽りの教えを退け、純粋さを保とうとして、時に厳しい試練を経験しながら歩み続けている。私たちは、この日本の社会にあって、十字架と復活の福音を、誤りなく、大胆に語り続けることができるよう、声を大きくして祈りたい。日本の社会は、今、価値観が揺れ動いていると感じる。何が正しくて、何が間違っているのか、人に迎合することが求められるような、奇妙な傾向が見られる。長いものに巻かれるのを好み、強いものに惹かれるのも、この社会の特徴である。少数でも、正しい者の側に付く勇気を、初代の教会の人々の祈りから学びたい。「この方以外には、だれによっても救いはありません」との言葉、また、神の前に正しいことを選び取ろうとした弟子たちの姿は、今日の私たちの生き方に、確かな模範を与えてくれる。主イエスを救い主キリストと信じる信仰に生きるのに、勇気と力を、主ご自身からいただきたい。またこの信仰を証しするのに、「みことばを大胆に語らせてください」と、私たちも祈りつつ、地上の日々を歩ませていただきたい。天の御国を目指して。
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