礼拝説教要旨(2015.06.21) 
この方以外には救いはない
(使徒の働き 4:1〜22)

 「美しの門」の前で足を癒された男の人が、ペテロとヨハネについて宮に入り、二人と一緒に神を賛美している様子を、多くの人々が見て、宮の中は大騒ぎになっていた。「ソロモンの廊」には更に大勢が集まり、ペテロは人々に向かって、十字架の死からよみがえったイエスが、キリストとして今、生きて働いておられることを、力強く語って、罪の悔い改めを迫っていた。イエスの御名を信じる信仰こそが、この大いなる出来事を起こしている・・・と。

1、心を動かされている人々が大勢いる事実とともに、事を苦々しく思って見つめている人々がいた。イエスを十字架に追いやった人々、ユダヤ人の指導者たちである。彼らは、イエスの十字架で決着したつもりであった。けれども、エルサレム中に、イエスの復活のことが知れ渡り始め、いろいろと噂を流して打ち消そうとしていたが、それもうまく行かず、手を焼いている内にこの日の大騒ぎを迎えていた。彼らにしてみると、いささか「困り果て」、ついに実力行使に出ることになった。二人を捕え、翌日まで留置し、とにかく、これ以上騒ぎが大きくならないようにと必死であった。(1〜3節)祭司たちは、イエスを十字架に付けて殺した罪、またキリストについての預言を理解しなかった誤りを指摘されて怒り、宮の守衛長たちは、宮の管理責任上、暴動に発展するのを恐れていた。サドカイ人たちは、ユダヤ人の最高議会の主流派であり、ローマの管理下にあって、自分たちの宗教活動が保たれるために、やはり騒ぎを大きくしたくはなかった。そして、その日も多くの人が「みことば」を信じた事実を前に、もう夕方になり、議会は、翌日に招集されることになった。一連の騒ぎは、午後三時以降、わずかな時間に起こっていたのである。(4節)

2、捕えられたペテロとヨハネは、その夜、どんな思いで過ごしたのだろうか。主イエスは、弟子たちにあらかじめ語っておられた。「・・・彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむちを打ちますから。・・・人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:17-20、※ルカ21:12-15)ペンテコステの日以降、彼らは、聖霊に満たされ、力を注がれていた。自分たちの思いを超えた経験をさせられ、主の約束を頼りに、夜が明けるのを待ったに違いない。最高議会の面々が居並ぶ場に立たされ、早速の尋問となったが、聖霊に満たされたペテロの言葉は明快であった。「何の権威によって」、また「だれの名によって」との問いかけに対して、「病人に行った良いわざについて」なら、それは「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」と告げた。あなたがたが退け、見捨てた方を、神がよみがえらせ、全ての人が依り頼むべき方、キリストとして立たせておられると、詩篇を引用して証言した。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(5〜12節)死からよみがえられたイエスこそキリスト、この方以外に救いはないと、彼ら自身が、イエスをキリストと、心から信じる信仰へと導かれていたことを、はっきりと証言していた。

3、ペテロたちの話しぶり、その大胆さや迷いのなさは、そこに集まった人々の驚きであった。特別な教育や訓練を受けた指導者たちとは違う、ごく普通の人たちである。その彼らが、確かにイエスと共にいたこと、そして、イエスの御名による奇蹟を行ったこと、それらの事実を認めないわけに行かなかった。(13〜14節)そして、二人を退場させ、協議したが、民の指導者たちは、成すすべがほとんどない状況に追い込まれていた。彼らは、主イエスの復活を、全く否定できなかったというのが真相である。(15〜17節)この事実は、とても大事である。ならば、どうして信じないのか。彼らは、自分たちの、今ある生活や、権利や利益が失われることを恐れたのである。神がおられることを、本気で信じることはしたくなかったと言える。彼らは結局、何とか事を治めるためにはと、「そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えてはならない、と命じた」のであった。ペテロとヨハネは断言した。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(18〜20節)ペテロたちは、神以外に、何も恐れるものはなかった。他方、ユダヤ人の指導者たちは、多くの人が神をあがめている事実を前に、二人を罰することはできず、脅しただけで釈放するしかなかった。神の守りは完全で、また神の癒しは確かなものであった。(21〜22節)

<結び> ペテロが語った言葉は、一つ一つ、格別な重みがある。「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」(10節)「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(12節)「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(19〜20節)ペテロがここまで力強く語れたのは、聖霊に満たされていたからである。しかし、その前に、十字架で死なれたイエスが、よみがえられたこと、死者の中から復活された事実があったからこそを、決して見失ってはならない。死に勝たれた主イエスだけが、本当の意味での「救い主」である。だから、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と言い切った。罪の赦しは、イエス・キリストの十字架の贖いなしにはないからである。そして、キリストを信じる教会は、世々変わらず、キリストの十字架と復活を宣べ伝え続けるのである。

 全ての人にとって、最大にして最強の難題は、やはり全ての人が、必ず肉体の死を迎えることであろう。その前に病があったり、様々な困難や悩みが襲ったり、私たちの地上の生涯は、必ずしも安心や喜びで満ちているとは言い難い。けれども、主イエスが十字架の死からよみがえられたこと、生きて働いておられることを信じる者に、そのイエスの御名を信じる信仰により、驚くばかりの力を与え、時には奇蹟を起こすまでして、神をあがめ、ほめたたえる人生を歩ませて下さるのである。イエス・キリストを信じる私たちは、神によって造られ、生かされている者として、イエス・キリストを信じて歩む日々を、一人でも多くの方と、共に歩ませていただきたいと願っている。「この方以外には救いはない」ことを覚え、一人、また一人と、イエス・キリストを救い主と信じる方が起こされるように、心を込めて祈りたい。